最小の傷
「《微傷治し》? 擦り傷係を聖堂に置く余裕はない」
治癒院長エルガネは、私の鑑定紙を机へ滑らせた。
【技能:対象が負っている最小の傷を、一つだけ完全に治す】
一人につき一日一回。骨折や裂傷を選べない。最小の傷がささくれなら、ささくれが消えて終わりだ。私は治癒術師の白衣を脱ぐよう命じられた。
その直後、廊下で剣聖オルディスが倒れた。
三人の上級治癒師が駆けつけ、骨、筋、血管、呪毒を順に調べた。どこにも異常はない。それなのに、剣を持たせると右手から力だけが抜け、床へ落ちる。昨夜までは岩を断っていた手だった。
魔王軍との決戦を三日後に控えた、王国最強の剣士だった。外傷はない。大治癒も解毒も効かず、右手だけが死人のように冷たい。院長たちは「老いだ」「呪いだ」と声を重ねたが、オルディスは歯を食いしばった。
「剣を握るときだけ、指の奥で雷が途切れる」
その言葉で、前世の記憶が浮かんだ。私は病院で、電気信号を測る仕事をしていた。太い線が切れれば何も動かない。けれど、髪より細い接点の傷でも、信号はそこで死ぬ。
私は彼の右手に触れた。
技能が探し当てた傷は、爪の欠けでも古い刀傷でもなかった。掌から腕へ走る魔力路、その分岐にある針先ほどの亀裂。大治癒は大きな損傷から埋めるため、あまりに小さいそれを傷と認識していなかったのだ。
「一度しか使えません。外れたら、今日は終わりです」
「やれ」
淡い光が指の中へ沈んだ。オルディスの手が一度だけ震えた。
院長がため息をつく。
「変化は――」
言い終わる前に、壁の剣が鞘ごと跳ねた。オルディスは寝台から動かず、二本の指で飛来した柄を挟んでいた。次いで抜刀の風が、部屋の蝋燭を百本まとめて消した。
「戻った」
剣聖は自分の掌を見つめ、それから私の前に片膝をついた。
院長の顔から血の気が引く。
「剣聖様、なぜそのような者に」
「大傷を治せる者は多い。だが、世界を止める最小の傷を治せる者は一人だ」
オルディスは私の鑑定紙を拾い、戦力外の判を剣先で切り落とした。
「決戦には、この治癒術師を私の隣に置け」