最後に鍵をかける人
戸叶実樹乃は、誰かを待たせるくらいなら二十分早く着く人だった。本社では営業の補助をしており、会議室を開けるのも資料を配るのも、いつも実樹乃が最初だった。意見を求められると、先に話した人へ合わせる。先回りして役に立てば、自分の判断を間違える場面を減らせた。二週間の社外研修でも、同じ部屋の古賀郁路より先に起き、洗面台を空け、湯を沸かし、玄関で靴を履いて待った。新人のころ、電車遅延で三分遅れ、上司に「時間を読めない人」と言われたことがある。以来、待つ時間だけは惜しまなかった。開店前の店先や会議室の暗い廊下で過ごす二十分は、遅れない自分を守る保険だった。
郁路は地方の工場から来た品質管理担当で、支度が遅いわけではない。ただ、朝の窓を開けて風の匂いを確かめたり、靴下を左右で選び直したりする。実樹乃には、それが目的のない時間に見えた。
研修三日目、最終日の発表者を決める紙が配られた。実樹乃は内容を考えてきたのに、補助欄へ丸をつけた。その夜、「先にロビーへ行っています」と鍵を手にしたとき、郁路が訊いた。
「一番に出ると、何を守れるの?」
「遅刻しないで済みます」
「まだ四十分あるよ」
郁路は笑わず、机の上へ鍵を戻した。
「明日は私を先に出して。あなたが最後に鍵をかけてみて」
何の役に立つのかは言わなかった。
翌朝、実樹乃はいつもどおり六時半に目を覚ました。郁路が先に鞄を持つまで、落ち着かず時計を三度見た。玄関で郁路は「じゃあ」とだけ言い、鍵を置いて出ていった。廊下を遠ざかる足音が消えると、待ち合わせに置いていかれたのではなく、自分の朝を預けられたのだと気づいた。
部屋に一人になると、急に時間が広くなった。実樹乃は昨日のままの研修資料を鞄へ入れ、鏡の前で髪を結び直した。引き出しには、出張用に持ってきたのに一度も着けていない銀色のイヤリングがある。目立つと思われそうで避けていたものだ。
片方を耳へ当て、外し、また着けた。時計はまだ余裕を示している。実樹乃は両耳に留め、湯を一口飲んでから部屋を出た。
研修室では、いつも後ろの席から埋まっていた。前方のホワイトボードに「本日の発表希望者」と紙が貼られている。誰かが書くのを待てば、また補助役で済む。
実樹乃は最後に鍵をかけた手でペンを取り、自分の名前をいちばん上へ書いた。