最後の八拍は笑って
越名沙羅と羽鳥一樹は、七年間ペアで踊った。
恋人になったのは二年目。
心が離れ始めたのは、たぶん六年目だった。
以前の一樹は、ワルツの回転で沙羅が少し遅れると、手のひらで「大丈夫」と伝えた。
最近は正しい位置へ導くだけだった。
技術は崩れない。だからこそ、触れた瞬間に分かった。
全国選手権の前夜、一樹が言った。
「大会を辞退して、別れたい」
「順番が逆。大会に出てから別れる」
「無理して笑う必要はない」
「笑うのも競技のうちです」
翌日、二人は最後のフロアへ立った。
音楽が始まる。
一、二、三。
沙羅はいつもどおり、一樹の肩越しに客席を見た。
彼の手は正確で、やさしく、もう愛してはいなかった。
沙羅はそれでも笑った。
観客には、幸せな恋人同士に見えただろう。
「どうして笑える」
回転のすれ違いざま、一樹が囁いた。
「今しゃべると減点」
「沙羅」
「一、二、三」
最後の連続回転へ入る。
七年間で覚えた呼吸が、別れ話よりも自然に二人を動かした。
「僕を責めていい」
「責めたら、心が戻る?」
「戻らない」
「なら、最後の曲まで一樹を悪役にしても、私の姿勢が崩れるだけ」
一樹の指が震えた。
沙羅は握り返さなかった。ただ、転ばないだけの力を残した。
終盤、音楽は八拍の静かな間奏へ入る。
「あなたが好きだった時間に、最後まで下を向かせたくないの」
沙羅は笑顔のまま言った。
「だから見送る。踊りきってから」
七拍目で、一樹が沙羅を抱き上げる。
八拍目で、二人は本来なら見つめ合う。
沙羅は一瞬早く視線を外し、客席へ向けた。
その先にある人生を、自分だけのものとして見るために。
曲が終わる。
二人は完璧な礼をした。
舞台袖へ入ると、一樹は泣いていた。
沙羅は汗を拭き、明るく言った。
「次の曲は、別々ね」
「ごめん」
「それ、さっき聞いた」
「ありがとう」
「それは、今聞いてもいい」
表彰台には届かなかった。
けれど観客は長く拍手した。
沙羅は最後まで笑顔で応えた。
健気に見えたかもしれない。
本当は、彼のためだけではなかった。
好きでなくなった人に、自分の最後の踊りまで持っていかせないための笑顔だった。