最後の前髪は三ミリ短く

香坂まどかが東京の大学へ発つ前日、宇津木辰弥は店じまいした理髪店の椅子へ彼女を座らせた。

「都会の大学生に見える髪型で」

「素材に限界があります」

「失恋させるよ」

「明日には遠距離だろ」

「その話をしに来た」

鏡の中で辰弥の鋏が止まった。

二人は高校一年から付き合っていた。辰弥は卒業後、祖父の店で修業する。まどかは東京で都市計画を学ぶ。古い商店街を残す仕事がしたいという彼女を、辰弥は誰より応援してきた。

「遠距離はしない」

まどかが言った。

「どうして」

「大阪の研修、断ったでしょう」

「店を継ぐからだ」

「おじいちゃんから聞いた。私が帰省したとき店にいないと困るからって」

辰弥は櫛で髪を整え直した。

「三年だけだ」

「私も四年だけって言う。そうやって、お互いの予定を相手の帰る日に合わせたら、進学してもここから出られない」

「好きじゃなくなった?」

「好き。だからあなたの店の予約表になりたくない」

辰弥は返事の代わりに前髪を切った。

ぱちん、と乾いた音がして、黒い毛が白いクロスへ落ちる。

「短い」

「都会仕様」

「眉毛が出てる」

「意思の強い顔に見える」

「元から強いよ」

「知ってる」

軽口を交わすほど、別れが本当になった。

仕上げに辰弥は襟足へ刷毛をかけた。いつもなら首をくすぐって笑わせるのに、今日は丁寧すぎて、まどかは泣きそうになった。

「帰省したら、髪を切りに来てもいい?」

「元彼割引はない」

「学生割引は?」

「それも三月まで」

「けち」

「都会で上手い店を見つけろ」

鏡越しに目が合った。

辰弥は初めて鋏を置き、椅子の背へ額をつけた。

「見つけてほしくない」

「うん」

「でも、見つけろ」

「うん」

まどかは会計皿へ料金を置いた。

辰弥は受け取らず、代わりに古い予約カードを一枚渡した。日時の欄には〈未定〉、名前の欄には〈香坂まどか様〉とある。

「予約していいの?」

「客としてなら」

翌朝、まどかは新幹線の窓に映る自分を見た。

前髪は頼んだより三ミリ短く、見慣れた顔から町で過ごした時間だけが少し切り離されたようだった。

カードは捨てなかった。

けれど予約の電話もしなかった。

帰る場所と、戻る関係は、同じではなかった。