最後の声は、味噌汁の話
八十吉が喉の手術を受けることになったとき、医師は「声を失う可能性があります」と、ひどく丁寧に言った。
病院からの帰り道、妻の澄江は電器店に寄り、いちばん大きな録音ボタンのついた機械を買った。
「最後の声、残しておきなさいよ」
「遺言みたいで縁起が悪い」
「じゃあ、私への感謝を三十分」
「テープがもったいない」
「四十五分に増やすよ」
結婚して三十八年、八十吉は「ありがとう」さえ咳払いに紛らせる男だった。澄江が髪を切っても気づかず、風邪をひけば黙って枕元に梨を六個並べた。告白もなかった。見合いの帰りに「次も同じ時間で」と言われ、それが求婚まで続いただけだ。
手術の前夜、八十吉は澄江を病室から追い出し、一人で録音した。
「絶対、聞くなよ」
「録音する意味がないでしょう」
「俺が死んでから聞け」
「喉の手術で勝手に死ぬな」
翌日、手術は成功した。けれど八十吉の声は戻らなかった。
澄江は病室の椅子で再生ボタンを押した。
最初に長い咳払い。時計の音。布団のきしみ。
やがて八十吉の声がした。
『味噌汁は、もう少し薄くていい』
「最後まで文句かい」
『庭の脚立は捨てろ。ぐらつく』
「自分が直しなさいよ」
『通帳は仏壇の下。あと、澄江』
そこで声が止まった。
数秒の沈黙のあと、かすかに息を吸う音がした。
『俺は、おまえに――』
がちゃん、と無情な音がして、テープが終わった。
澄江が振り向くと、八十吉はベッドの上で目をそらしていた。渡された筆談帳に、震える字で書く。
〈A面だった〉
「三十八年もA面だったでしょうが」
八十吉の肩が、声のない笑いで揺れた。澄江は笑いながら泣き、筆談帳を取り上げた。
〈続きは、百まで生きて払うこと〉
八十吉はしばらく考え、〈高い〉と書いた。
「利息込みだよ」
退院した夜、澄江はいつもより少し薄い味噌汁を出した。八十吉は一口すすり、何も書かずにうなずいた。
言えなかった最後の言葉は、三十九年目の食卓で、二人のあいだに立つ湯気の形をしていた。