最後の散歩薬
老犬は玄関から立ち上がれなくなった。
十六年、毎朝同じ川沿いを歩いた犬だった。
飼い主は獣医から、青い錠剤を一つ渡された。
「水に溶かして飲ませると、次の散歩が終わるまで言葉が通じます」
飼い主は、最後の別れを聞く薬だと思った。
犬を毛布ごと抱き、川へ連れていった。
地面へ下ろすと、犬はよろめきながら歩き始めた。
「痛いか」
「右の後ろ脚。あと、あなたの歩くの遅い」
声は、昔から知っていたような低い声だった。
飼い主は泣きそうになった。
「私を置いていくのが怖くないか」
「置いていくのは、いつもあなた」
犬は電柱の匂いを嗅いだ。
「買い物のとき。仕事のとき。病院のとき。ちゃんと帰ってきた」
聞きたかった言葉と違った。
もっと愛情深い礼や、感動的な別れを期待していた。
橋の手前で犬が止まった。
向こうから若い犬と、その飼い主が来た。
老犬は若い犬へ鼻を近づけた。
「この人、散歩をやめる。引っぱって」
若い犬の返事は、薬を飲んでいないので飼い主には聞こえない。
ただ尻尾を振り、こちらの手へ鼻を押しつけた。
「私の心配をしてるのか」
「違う。川の道、あなたがいないと匂いが減る」
老犬にとって、散歩は二人だけの思い出ではなかった。
橋の鳩、朝のパン屋、草を刈る人、毎週会う犬。
飼い主が歩かなければ、犬が知っていた世界から一つの匂いが消える。
帰り道、犬は何度も休んだ。
飼い主は急がせなかった。
薬の時間を延ばしたい気持ちもあったが、犬は最後まで大事なことを言わなかった。
玄関へ着く直前、飼い主は尋ねた。
「幸せだったか」
犬は座り込み、長く考えるように鼻を動かした。
「毎日、違う匂いだった」
それが答えらしい。
家へ入ると、犬の声は聞こえなくなった。
その夜、老犬は飼い主の足へ顎を載せて眠り、朝には息をしていなかった。
一週間後、若い犬の飼い主が玄関へ来た。
「うちの子が毎朝、ここから動かなくて」
飼い主は断ろうとした。
けれど若い犬がリードを口にくわえ、手へ押しつけた。
川沿いを歩く。
以前より速い。
橋の鳩も、パン屋の匂いも残っていた。
老犬の言葉はもう聞こえない。
それでも道のあちこちに、「毎日違った」世界が続いていた。
飼い主は歩くことを、供養ではなく、新しい散歩として始めた。