最後のA

音楽室の時計が六時を指したとき、譜面台はもう全部たたまれていた。

三年生の引退演奏会は終わった。楽器を磨き、借りた楽譜を数え、椅子を壁へ寄せる。それが吹奏楽部員としての最後の仕事だった。

オーボエの亜澄は、ケースの蓋を閉じられずにいた。

合奏の最初には、いつも彼女がAの音を出した。その音へクラリネットが寄り、金管が寄り、最後に低音が床を震わせる。三年間、何百回も繰り返した、曲になる前の音だ。

「吹かないの?」

元指揮者の芽衣子が、指揮棒の入った細長い箱を抱えて訊いた。

「リード、もう捨てようと思って」

「じゃあ、その前に一回」

「何を」

「チューニング」

部室には三年生だけが残っていた。誰かが笑いながらケースを開け直した。もう手入れを終えたばかりのトランペット、コルクグリスを塗ったクラリネット、布に包んだホルン。打楽器の二人は困った末、鍵盤楽器の前に立った。

亜澄はリードを湿らせた。

最初のAは、少し低かった。唇が疲れている。息を入れ直すと、細い音が夕方の音楽室をまっすぐ渡った。

一人ずつ音が重なる。

音程はすぐには合わなかった。引退演奏会よりひどい、と誰かが笑い、その笑いでまた音が揺れた。芽衣子は中央に立ち、耳を澄ませる。いつもなら「低い」「三番上げて」と容赦なく止めるのに、今日は何も言わない。

亜澄には、誰の音がどこにいるかわかった。

息の入りが遅い悠。必ず少し明るく鳴るトランペット。緊張すると揺れるフルート。音量を抑えきれないテューバ。上手になって癖が消えたと思っていたのに、最後の日には全部聞こえた。

少しずつ、Aが一つになる。

芽衣子が指揮棒を上げた。

全員が、次の曲の最初の息を吸った。

けれど棒は振り下ろされなかった。

芽衣子はそのまま目を閉じ、ゆっくり腕を下ろした。合図に合わせて音もほどけた。最後まで残ったのは亜澄のオーボエだった。彼女も息を終える。

静けさが戻る。

「曲、やらないんだ」

誰かが言った。

芽衣子は指揮棒を箱へしまった。

「今のが最後の曲」

「Aだけじゃん」

「曲になる直前が、いちばん私たちらしいから」

亜澄は笑って、使い古したリードを外した。捨てるつもりだったが、ケースの小さなポケットへ入れた。

もう二度と同じ音程には集まれない。

だからこそ、あの一音は、どの演奏より長く耳に残った。