最後列の聴講生

特別講義の最後列に、古びたノートを抱えた老人が座っていた。一ノ瀬颯臣という名札だけが机に置かれ、所属欄は空白だった。

壇上の准教授は、最新の暗号理論について流れるように話した。質疑応答になると、老人が手を挙げる。

「その証明では、第三条件を外した場合の反例を排除できませんね」

教室が静まった。准教授は笑みを崩さず、レーザーポインターを置いた。

「一般の聴講者には少し難しかったでしょう。第三条件は慣例的に省略してよいのです」

老人はノートを開き、たった三行の式を黒板に書いた。

この准教授には、学生の発見を自分の研究会で先に発表するという噂があった。私も先月、相談した補題が彼の資料に名前なしで載っているのを見た。老人は講義前、私のノートを覗き込み、「途中まで正しい。最後の一歩は君が書くべきだ」とだけ言っていた。だから彼が手を挙げたとき、教室の何人かは期待するように顔を上げた。

老人は私たちの方へ一度だけ振り返った。答えを与える目ではなく、間違いを恐れず見届けろという目だった。逃げるように下を向いていた学生も、次々に黒板を見た。後ろから見ても、最後の等号が成立しないことだけは分かった。

准教授はすぐに消し始めた。

「授業の進行を妨げないでください。学部一年生でも、思いつきを証明とは呼びません」

前列の学生たちは視線を落とした。私はノートに式を写しながら、老人が怒るのを待った。だが彼はチョークの粉を払い、席へ戻っただけだった。

そのとき講義室の扉が開き、学部長と理事長、海外から来た研究者たちが入ってきた。准教授は慌てて演台を整えた。

理事長は黒板の三行を見て足を止める。

「もう新しい反例を見つけられたのですか」

老人は肩をすくめた。

「着任前に、学生の講義を一つ見ておきたくてね」

学部長が教室全体へ向き直った。

「紹介します。フィールズ賞受賞者で、本日付の本学新総長、一ノ瀬颯臣先生です。なお次期准教授審査の最終責任者も務められます」

消しかけの三行が、黒板の中央に白く残っていた。