最終営業日の窓口
「その話は、窓口が閉まってからにしてください」
滝沢文香は、米倉直哉に何度もそう言ってきた。
昼休みの誘いも、昨日見た映画の感想も、直哉が時々こぼす「転勤したら寂しいですか」という冗談も。銀行の窓口には列ができ、二人の胸には行員証がある。私語を始めれば、すぐ次の番号が呼ばれる。
けれど閉店後になると、今度は締め作業が待っていた。話はいつも翌日へ送られ、その翌日もまた忙しかった。
文香の名古屋支店への異動が決まったのは、年度末の二週間前だった。直哉は「おめでとうございます」と一番に言い、送別会では誰より明るく笑った。
それから彼は、文香が使う朱肉を毎朝補充し、混雑する昼には黙って隣の窓口を開けた。別れを惜しむ言葉は一度もない。その正しさが、文香にはかえって寂しかった。最後の週だけでも閉店後に話そうと思ったのに、決算作業で毎晩遅くなり、約束はまた翌日へ送られた。
最終営業日、十五時にシャッターが下りた。文香は最後の伝票をそろえ、窓口の名札を外す。明日からここに座らないと考えた途端、毎日先送りした言葉が急に期限切れになった。
「米倉さん」
呼び止めると、直哉はカウンターの向こうから一冊の薄い手帳を差し出した。
開くと、月に一度の土曜日へ青い丸がついている。東京から名古屋までの始発と最終の時刻、その間に行ける店や公園が、小さな字で書かれていた。
「全部、日帰りできます」
「調べたんですか」
「窓口が閉まるのを待っていたら、もう今日になったので」
直哉は一番近い土曜日を指した。文香はペンを取り、その丸の横に《文香と直哉》と書き加える。さらに自分の予定表にも同じ日を入れた。
「これは相談ですか」
「いいえ。予約です」
文香はカウンターを回り、彼の前に立った。差し出された手帳ではなく、直哉の手を取る。驚いてほどけかけた指を、今度は文香から握り直した。
「直哉さん。次からは、閉店前でも名前で呼んでください」
店内放送が、全業務終了を告げる。
その話は、窓口が閉まってから。
閉まったあとに始まったのは、別れ話ではなく、二人の最初の予定だった。