朝五時の請求書

硯川家のパン屋は「家族の温かさ」を売りにしていた。

その家族写真に、嫁の瑛茉だけはいない。午前四時半から生地をこね、開店後はレジに立ち、閉店すれば義父・博嗣の夕食を作る。それでも義母の章子は、客の前で言った。

「この子は手伝わせてもらっているだけ。給料を欲しがるなんて、嫁らしくないでしょう?」

夫の卓巳も同じだった。

「母さんが店を継がせてくれるんだ。今は恩返しだと思えよ」

ある朝、瑛茉は粉の付いたエプロンをたたみ、厨房の鍵を置いた。それから一か月後、三人は離婚調停の席で彼女と向かい合った。章子は腕を組み、調停委員に訴えた。

「勝手に店を放り出したんです。むしろ損害賠償を請求したいくらいですわ」

瑛茉の弁護士が、一冊の黒い帳簿を机に載せた。

そこには三年分の出退勤時刻、製造数、配達先、章子の指示が一分単位で記録されていた。店の防犯映像、卓巳が送った「今日も無給で頼む」「母さんの前で賃金の話をするな」というメッセージも添えられている。さらに、開業時に瑛茉が相続金から出した千五百万円の金銭消費貸借契約書が続いた。

博嗣が紙をつかむ。

「これは結婚祝いだったはずだ!」

「返済期日は昨年です」

弁護士は公証役場の印を指した。

「強制執行認諾条項付きです。貸金千五百万円は、判決を待たずに差押え可能です」

請求書の最後には、未払い賃金七百八十万円、長時間労働による休業損害、三人の侮辱と経済的支配に対する慰謝料九百万円が並んでいた。総額三千二百万円。

卓巳は瑛茉へ身を乗り出した。

「店がなくなったら、僕たち家族はどうなるんだ」

「私も家族だったはずよ」

章子は調停委員へ助けを求めた。

「こんな額、脅しです!」

そのとき、博嗣の携帯に信用金庫から着信が入った。店の土地と売上口座について、強制執行の通知が届いたという。

弁護士は卓上の請求書を三人の方へ回した。

「本日午前九時、執行文は付与されました。パン窯を止めるか、全額支払うか。選ぶのは硯川家です」