期限切れの色
瑛茉の洗面台には、別れた恋人が選んだ化粧品が十七個並んでいた。
「似合うって言われた色は残す?」
叶実が聞いた。彼女はいつも日焼け止めと眉だけで出勤し、口紅は一本しか持っていない。
「似合わないって言われた色を捨てる」
「基準がまだ向こうじゃん」
言い方は冷たいが、叶実の手は黙々と容器の裏の使用期限を読んでいる。
瑛茉は失恋した勢いで全部捨てたかった。けれど限定色のケースを開くたび、旅行先の免税店や、誕生日のレストランが浮かぶ。叶実は思い出を聞かなかった。期限切れは回収袋、未開封は寄付箱、使用中は瑛茉の右手側へ置いた。
マスカラの乾いたブラシを一本ずつ抜き、香水の残量を確かめる。叶実は匂いで頭が痛くなると言い、窓を開けた。瑛茉は寒いと閉めた。五分後、二人とも黙って半分だけ開け直した。
最後に残ったのは、深い赤だった。
元恋人は「仕事には強すぎる」と笑い、瑛茉はそれ以来、休日にしか塗らなかった。
「これは?」
「捨てる。見るたび腹が立つから」
叶実は赤を腕に一筋引いた。青みのある色が、彼女の肌では少し浮いた。
「私には似合わない」
「知ってる」
「瑛茉には?」
答える代わりに、瑛茉は綿棒で口紅の表面を薄く削った。消毒用のティッシュでケースを拭き、鏡の前に立つ。
手が震えて輪郭をはみ出した。叶実は励まさず、自分のポーチから細いブラシを出した。
「貸す。返却は洗ってから」
赤を整え終えると、瑛茉の顔は強くなったのではなく、ただ自分で選んだ顔になった。
二人は回収袋を持って駅前の化粧品店へ向かった。叶実は派手な色が苦手で、瑛茉は明日も赤を塗るか分からない。店先で雨が落ちてきたときも、意見は割れた。
「走る?」
「濡れるから嫌」
「私は早く捨てたい」
叶実はため息をつき、紙袋を自分のコートの内側へ入れた。瑛茉は彼女の一本しかない口紅が濡れないよう、ポーチを預かった。
回収箱の前で、二人は袋を一緒に傾けた。古い色が容器ごと落ち、乾いた音を立てる。
赤だけは、瑛茉のポケットに残っていた。