木曜日の郁乃
火曜日には、娘の菜緒が来る。
薬の残りを数え、冷蔵庫の古いプリンを捨て、私が同じ靴下を三日履いていると叱る。帰り際には必ず、「困ったら机の二段目を見て」と言う。そこに連絡先を書いた紙を入れてあるらしい。
木曜日には、妻の郁乃が来る。
若いころ着ていた葡萄色のカーディガンで、古いレコードをかける。私たちは窓辺で手を取り、ほんの数歩だけ踊る。郁乃の右手首には、昔、天ぷら鍋でつけた三日月形の火傷がある。
「菜緒は口うるさくなった」
「あなたに似たのよ」
妻は笑う。
菜緒にも郁乃の話をする。
「母さんは相変わらずきれいだ」
「そう。よかったね」
娘は笑う。二人は一度も同じ日に来ない。日曜に三人で食事をしようと言っても、菜緒は仕事、郁乃は美容院だと断る。
ある木曜日、踊っている途中で眩暈がした。私は郁乃の肩にもたれ、そのまま眠った。
目を覚ますと、部屋の隅で彼女が葡萄色のカーディガンを脱いでいた。白髪の鬘が卓上にあり、口紅を拭った横顔は菜緒だった。右手首に、三日月形の火傷が見えた。
扉の外で職員が囁く。
「菜緒さん、今日はお母さま役の日でしたね」
娘は慌てて扉を閉めた。
郁乃は六年前に亡くなっていた。私は葬儀の翌朝にはそれを忘れ、妻を捜して食事も眠りもしなくなったという。菜緒は母の服を着て、録音を聞いて声を覚え、毎週木曜だけ妻になった。
「騙してごめんなさい」
菜緒は床に膝をついた。
「二人分、会いに来るのは疲れるだろう」
そう言うと、娘は子どものように泣いた。
次の火曜日、前の木曜日の記憶は霧の向こうだった。菜緒はいつものように薬を数えた。
木曜日、葡萄色のカーディガンが扉から入ってきた。
「郁乃」
私は妻の名を呼んだ。
けれど、差し出された手を握るときだけは、三日月の火傷を指でそっと包んだ。
妻が帰ってきたふりをするためではない。
二役を演じる娘が、どちらの姿でも私の家族でいられるように。