未練の仕立屋

路地裏の仕立屋には、布が一枚もなかった。

壁に掛かるのは、夕食の匂い、駅の発車ベル、誰かの寝息と書かれた札ばかりだった。

夫を亡くした女性は、

「もう一度だけ会える服がほしい」

と頼んだ。

仕立屋は答えた。

「思い出を一つ布にします。その思い出は、服を脱いだあと、あなたから消えます」

女性は迷った末、結婚記念日でも最期の会話でもなく、ある冬の朝を差し出した。

夫が寝坊し、パンを焦がし、二人で流し台の前に立って食べた朝。

大切ではあるが、なくしても生きていけそうな記憶だった。

店主が空中へ鋏を入れると、焦げた匂いのする灰色の上着ができた。

家へ戻り、それを着る。

台所に夫がいた。

若くも病んでもいない、あの朝の姿で、黒いパンを皿へ並べている。

「遅い」

夫は言った。

女性は泣きながら笑った。

「あなたが寝坊したんでしょう」

上着が温かい間だけ、二人は話せた。

女性は言えなかった感謝や、最期の日に腹を立てたことを全部伝えようとした。

夫は聞きながら、焦げたパンへバターを塗った。

「それより食べよう」

「時間がないの」

「だから食べるんだよ」

夫は大事な答えを一つもくれなかった。

なぜ先に死んだのか。

一人でどう暮らせばいいのか。

ただ、昔のようにパンの黒い部分を自分の皿へ移した。

上着が冷め始めた。

女性は慌てて夫の顔を見た。

「忘れたくない」

「何を?」

「この朝を」

「全部持っていなくても、朝は来る」

夫の姿が薄れた。

上着を脱ぐと、女性は台所で一人だった。

なぜ流し台の前で泣いているのか分かる。

けれど、差し出した冬の朝だけは思い出せない。

焦げたパンの匂いに胸が痛む理由も、もう説明できなかった。

翌朝、久しぶりにパンを焼いた。

少し焦がした。

反射的に黒い部分を二つに分け、一つを空の皿へ置きかけた。

手を止め、自分の皿へ戻した。

思い出は消えたはずなのに、誰かと暮らした手つきは残っていた。

灰色の上着を仕立屋へ返しに行くと、路地にはクリーニング店しかなかった。

女性は上着を冬ごと着た。

夫はもう現れない。

それでも温かくなるたび、一人分の朝食を丁寧に作った。

未練をなくすことは、忘れることではなかった。

一緒にいた時間から、今日を生きる手つきだけ受け取ることだった。