朱印の上の名前
医療用カテーテルの親水性被膜を開発したのは、下請け薬品会社の桑折直生だった。ところが特許出願の発明者欄に彼の名はなく、元請けの取締役二人だけが並んでいた。
特許を担保にした融資の決裁会議へ、直生は品質説明員として呼ばれた。銀行の担当者は、一枚の共同開発確認書を示した。そこには「成果は元請け単独に帰属する」とあり、直生の会社の角印も押されている。
「御社も合意済みですね」
直生は紙を窓へ透かした。赤い角印の上に、黒い「元請け単独」という文字が乗っている。通常は文書を印刷してから押印するため、朱肉が文字の上を覆う。ところがこの一行だけ、トナーが朱肉を隠していた。空欄の紙へ先に印を押させ、後から帰属条項を印刷したのだ。
元請けの知財部長は、印刷順など証明にならないと切り捨てた。
直生は複写式の控えを出した。最初に渡された確認書では、同じ欄が空白になっている。さらに紙を斜めから照らすと、筆圧痕が浮かんだ。
「共同発明者 桑折直生」
打合せ中、元請けの担当者が鉛筆で記し、後に消した文字だった。日付の横には担当者の確認印も残っている。
融資担当者が、特許譲渡契約書の発明者保証条項を読み直した。発明者の同意に虚偽があれば、融資全額が期限前返済になる。
知財部長は直生を睨んだ。
「下請け一社の名前で、製品化を潰すつもりか」
直生は自社の小さな丸印を机へ置いた。
「製品を作った膜は薄くても、発明者の名前まで透明にはできません」
直生の会社の社長は、元請けから年間売上の半分を受けていた。隣席から「今だけ黙れ」と目で訴えてくる。直生は迷った末、被膜の試験片を銀行担当者へ渡した。表面の薄さは数マイクロメートルしかない。それでも患者の血管を守れる。立場の薄さを理由に、発明者の権利まで剥がされる筋合いはなかった。
銀行役員は契約書を閉じ、融資実行印の朱肉に蓋をした。朱印の上へ後から載せた一行が、四十億円の決裁を止めた。