杉林を抜けるまで
娘のピアノ発表会の日、父親は夜勤明けだった。
工場の機械が故障し、二時間残業した。帰宅して着替えれば、開演にはぎりぎり間に合う。
だが三晩ほとんど眠っていなかった。客席で居眠りするくらいなら、行かない方がましだと思った。
娘から届いたメッセージには、
「無理なら来なくていい」
とだけあった。
その言葉が本当に許しているときのものではないことを、父親は知っていた。
駅から家までの近道に、小さな杉林がある。
足を踏み入れると、外の一分が、林の中では一時間になった。
腕時計の針は早く回るのに、道路を走る車は木々の隙間でほとんど動かない。
父親は驚いたが、まず落ち葉の上へ横になった。
目覚ましを二十時間後に設定し、娘が幼い頃にくれた鍵盤柄のハンカチを枕にした。
目が覚めても、外では二十分しかたっていなかった。
林の中には長い朝が来ていた。
持っていたパンを食べ、近くの水道で顔を洗う。残った時間で、娘が送ってきた練習動画を見た。
同じ小節で何度も止まり、やり直し、最後には画面へ向かって「今度こそ」と笑っている。
父親は、その笑顔をいつから見落としていたのか考えた。
林を抜けると、車が一台分だけ進んだ。
父親は家へ寄らず、作業着のまま会場へ走った。
演奏の途中、娘は例の小節で一音外した。
客席のあちこちで息をのむ音がした。
父親だけは、動画の続きのように小さくうなずいた。
娘は鍵盤から手を離さず、最後まで弾いた。
終演後、娘は作業着の油染みを見て眉をひそめた。
「寝てないでしょ」
「林で寝た」
「何それ」
「かなりよく寝た」
父親が答えると、娘は呆れた顔をしたあと、ハンカチが枕の跡で皺になっていることに気づいた。
次の月、父親は夜勤の回数を減らしてもらった。
給料は少し下がった。
杉林へもう一度入れば、仕事も家族も両方うまくできる気がしたが、道の入口はただの空き地になっていた。
娘の二度目の発表会には、普通の時間で間に合った。
客席で眠くなったので、娘が舞台へ出るまで十分だけ目を閉じた。
起こしてくれた隣の人へ礼を言い、今度は最初の一音から最後まで聞いた。