栗の落ちる宿

 久多見瑛策は、公務員試験に三度落ちた日に山の宿を予約した。

 合格したら行こうと取っておいた金を、落ちた自分が使うのは悔しかった。それでも母の「来年があるよ」を聞くより、知らない土地で黙っていたかった。

 宿は峠の途中にあり、庭の栗が屋根へ時々落ちた。

 ころん、からん、と夜まで音がする。

 瑛策は部屋で参考書を開いた。旅先まで持ってきたことに自分で呆れたが、閉じると不安が広がる。

 廊下を通った主人が、開いた頁を見て言った。

「栗拾い、手が足りないんだけど」

「僕、客です」

「だから断ってもいい」

 断ってよいと言われると、瑛策はなぜか本を閉じた。

 朝、竹籠を持って庭へ出た。

 主人の孫らしい小学生が先に拾っている。

「つやがあるのだけ」

「虫食いは?」

「森の取り分」

 少年は穴の開いた栗を垣根の外へ置いた。

 瑛策は夢中で落ち葉をかき分けた。

 試験の選択肢と違い、栗は拾ってよいものと置いていくものが完全には分かれない。少し傷があっても重く、泥がついていても洗えば光る。

「それ、いい栗」

 少年に褒められた一個を、瑛策は籠の中央へ置いた。

 昼、主人が栗を茹でた。

 包丁で半分に割り、小さな匙で中をすくう。ほくほくした甘さのあとに、渋皮の匂いがわずかに残る。

「試験、落ちたんです」

 瑛策は自分から言った。

 主人は栗を一つ選びながら、

「それは残念だったね」

 と答えた。

 来年もあるとも、別の道もあるとも言わない。その一言だけで、瑛策はようやく残念がってよい気がした。

 午後は温泉へ入った。

 露天風呂の湯面へ、栗の葉が一枚落ちる。瑛策は拾わず、湯の端まで流れていくのを見た。

 不合格通知を見た瞬間から、次の準備をしなければと思っていた。けれど落ちた日は、まず落ちた場所に座ってもよいらしい。

 帰る朝、主人は紙袋へ焼き栗を少し入れてくれた。

「参考書の栞に、葉っぱもどうぞ」

 少年が乾いた栗の葉を一枚渡す。

 列車の中で、瑛策は参考書を開かなかった。

 紙袋から焦げた殻の香りが上がり、膝の上を温める。

 来年受けるか、別の仕事を探すかは、家へ帰ってから考える。

 窓の外で山がゆっくり遠ざかり、栗の葉の栞だけが、まだ何も決めていない頁を静かに挟んでいた。