梅の種を置く場所
春日井紗英の残業が終わったころ、受付には小さな紙袋が届いていた。
中には梅のおにぎりが一つと、恋人の字で〈会議、おつかれ〉とだけ書かれた付箋がある。今夜は、同居する部屋の申込書を二人で出す約束だった。
紗英の鞄には、その申込書と、父の会社へ送金した記録が入っている。父の店が傾いてから、毎月八万円を送っていた。恋人には「貯金は順調」と言った。共同口座を作ろうと提案されても、通帳を見せる日を延ばしてきた。
父からは今朝も、今月だけもう少し頼めないかと連絡があった。紗英は断れず、恋人には家具の予算を抑えようとだけ言った。恋人が二人分の貯金計画を楽しそうに色分けする横で、自分だけ別の家計を抱えている。秘密は父を守るために始めたのに、今では恋人から選ぶ権利まで奪っていた。隠すほど、父にも恋人にも、本当の自分の顔を見せられなくなった。
父を見捨てられない。けれど、助けていると知られたら、二人の生活を勝手に削っていたと責められる気がした。申込書の家賃は、紗英が送金を続ければ払えない額だった。
休憩室で袋を開けると、梅の酸っぱい香りが立った。米にはまだ、掌へ移る程度のぬくもりが残っている。
恋人はいつも、梅の種を先に抜いてくれた。紗英が子どものころ種を噛んで歯を欠いた話を覚えていて、箸の先で器用に取り出した。親切に甘えるたび、自分は守られる側でいてよいと思えた。
今夜は一人だった。紗英はおにぎりを少しずつ回し、赤い芯まで食べ進めた。舌に酸味が広がる。種へ前歯を当てないよう、指で梅肉を外した。硬い種は、思っていたより簡単に取れた。
申込書を広げる。空欄の頭金欄へ、予定していた額ではなく、今ある貯金を書いた。送金記録も隣へ並べた。
梅の種を捨てようとして、紗英はやめた。白い付箋の上へ置き、その下に一行だけ書いた。
〈この数字から、一緒に考えてほしい〉
残りの米を食べきると、紙袋へ申込書と通帳の写しを入れた。種だけは包まず、見える場所に残したまま、紗英は家へ向かった。