椅子が一つで足りる待ち合わせ
昼の図書館で、白樫いとさんはいつも声を潜めていた。
「この作家なら、二作目から読むといいですよ」
貸出票の裏へ、細い字で題名を書いてくれる。ページの角を折る人が嫌いで、飲み物は薄い紅茶。笑うときも、周囲の邪魔にならないよう口元を隠した。
深夜ラジオの〈ミナト〉は正反対だった。
『眠れないなら、本を一冊読み切るまで付き合うよ』
低く快活な声で、相談者を笑わせる。私は毎週メールを送り、放送で何度も読まれた。ミナトも本好きで、ページの角を折る人だけは信用できないと言った。
私は二人を別々に好きになった。
恋愛というより、会うと自分の輪郭が少し整う相手として。いとさんには昼の私を、ミナトには夜の私を話せた。
町の古書祭の日、思い切って二人を誘った。
いとさんは「日曜の二時なら」と答えた。
ミナトからも「日曜二時、駅前の喫茶店で」と返信が来た。
困った私は、同じ店の席を二つ予約した。
当日、先に現れたのはいとさんだった。灰色のコートを脱ぎ、薄い紅茶を頼む。
「もう一人、来る予定なんです」
「知っています」
いとさんは鞄から、放送局のロゴが入ったヘッドホンを出した。
そして目を閉じた。
数秒後、同じ顔が椅子へ深く座り直す。肩の力が抜け、声が一段低くなった。
『やっと会えたね』
ミナトの声だった。
私は立ち上がりかけ、また座った。
二人は一つの身体を共有していた。医師からは解離性同一性障害と説明されているという。記憶は完全には重ならず、鞄のノートで予定を伝え合う。私から届いた二通の誘いを、それぞれが別々に承諾し、同じ時間を書き込んだのだ。
『騙すつもりはなかった』
ミナトが言う。
少しして、姿勢が戻る。
「嫌なら、今日は帰ります」
私は「どちらが本当のあなたですか」と尋ねかけた。けれど、その質問はページを破るより失礼だと思った。
「いとさんは紅茶、ミナトさんは濃い珈琲でしたね」
二人の顔が、同じ目でこちらを見る。
「一つの胃で二杯はつらいので、今日は間を取ってカフェオレにしませんか」
最初に笑ったのがどちらだったのか、私には分からなかった。
分からなくてもよかった。
待ち合わせに来たのは、一人ではなく二人だった。
椅子が一つで足りただけだ。