椅子を引く音

病院前の百円ショップで、海老沢真琴は十二枚入りの丸いフェルトを買った。余命を四か月と告げられた日の夕方だった。

診察室を出てから最初に入った店が、病院前の百円ショップだった。必要なものはなかったはずなのに、レジ近くで茶色い小さな丸を見つけた。昨夜、食卓の椅子を引いたとき、床に長い音がしたことを思い出した。

会計は百十円だった。病院の領収書より薄いレシートを、真琴は同じ財布へ折らずに入れた。二つの金額は比べようがないのに、帰りの電車ではフェルトの袋ばかり何度も確かめた。

二階のこの部屋は音が響く。下に住む女性は一度も苦情を言わないが、夜勤から戻る恋人は椅子を持ち上げて動かす。真琴が勢いよく座るたび、「一階まで起きる」と冗談を言った。

玄関には恋人のスニーカーがない。帰宅は十時すぎだ。真琴は病院の封筒を靴箱の上へ伏せ、食卓を壁際へ少し寄せた。

椅子は二脚。脚は四本ずつだから、八枚あれば足りる。余った四枚をどこへしまうか考えながら、真琴は一脚を横倒しにした。古いフェルトは灰色に潰れ、二本分が消えている。残ったものも爪で剥がすと、床の埃を丸く抱えていた。

濡らした布で脚の裏を拭く。床に残った細い傷も、同じ布で一度なぞった。消えはしない。木の端に小さなささくれがあり、指に引っかかった。紙やすりを探すほどではない。布を二度往復させ、乾くまで待つ。

新しいフェルトの剥離紙は薄く、指先から逃げた。一枚目は少しずれた。貼り直そうとすると粘着が弱くなりそうで、そのまま親指で押す。二枚目、三枚目。椅子を戻して座ってみると、一つだけ高さが合わず、かすかに揺れた。

真琴はまた横倒しにし、重なっていた古い糊を爪で取った。今度は揺れない。

途中で恋人から電話が来た。真琴は出なかった。今声を聞けば、病院で言われた数字を先に話してしまう。椅子を直したあとにしたかった。意味のある順番ではない。ただ、やりかけを残したまま話すと、何もかも途中になる気がした。

八枚目を貼り、二脚を向かい合わせに戻す。真琴は片方の背をつかみ、いつもの力で手前へ引いた。

椅子は、音を立てずに近づいた。