欠けたクッキー
桐生絢乃の台所には、甘い匂いと、失敗したものだけが入る銀色の缶があった。
焼き色が濃すぎたマドレーヌ。形の揃わないスノーボール。表面に気泡の浮いたチョコレート。人に渡せないと判断したものを缶に入れ、翌朝、まとめて捨てる。食べられるかどうかではなく、見せられるかどうかが基準だった。
その夜は、異動する先輩へ渡すクッキーを焼いていた。丸い生地を同じ厚さに伸ばし、定規で間隔を測り、オーブンの前から離れなかった。それでも天板の端に置いた一枚だけ、取り上げるときに縁が欠けた。
ほんの爪の先ほどだった。
絢乃は欠けた一枚をつまみ、銀色の缶の蓋を開けた。中には昼に焼き損ねた三枚が重なっている。もう一度、生地を作り直せば数は揃う。時刻は午後十一時四十分。明日は七時に家を出る。
ボウルを洗い直す自分の姿が、流しの黒い窓に映った。肩が内側に丸まり、エプロンには小麦粉が散っている。先輩に喜んでほしいはずなのに、今はクッキーを憎みかけていた。
絢乃は缶へ落としかけた指を戻した。
欠けた部分から、まだ温かい香りが立っている。彼女はそれを皿に置いた。贈り物の袋には、形の揃ったものを詰めた。数は予定より一枚少ない。リボンを結ぶと、空いた隙間でクッキーがかすかに動いた。
いつもなら、その音が許せなかった。
絢乃は新しい生地を作らなかった。ボウルに水を張り、オーブンのスイッチを切り、欠けたクッキーを二つに割った。片方はきれいに割れず、細かな粉がテーブルへ落ちた。
口に入れると、バターの香りのあとに少しだけ塩が残った。焼き加減は、思っていたよりずっとよかった。
銀色の缶の蓋も閉じなかった。中の三枚を皿へ移し、明日の朝食と書いた付箋を添える。
欠けた半分をもう一口かじる。形を揃えるために捨てていた味を、初めて最後まで確かめる。
揃っていない四枚は、捨てられるものではなくなった。ただ、絢乃が食べるクッキーになった。明日の袋が少し軽いことも、もう埋め合わせなかった。