欠けた金将
夜の天守で、鷹埜宗一は城を賭けて将棋を指していた。
相手は包囲軍の神代弾正。幼い頃、同じ師から盤を習い、今は城壁を挟んで殺し合う仲だった。盤上には、右肩の欠けた金将が一枚ある。二人が初めて喧嘩した日に、宗一が噛んで欠いた駒だ。
「投了すれば、家臣五十人を助ける」
弾正は金将を指先で回した。
「五百だ」
「城に五百も生きていない」
「では全員だ」
弾正は初めて笑った。城内の死者数を知っている。内通者がいる。
宗一の背後には、襖を一枚隔てて小姓の鳴戸が座っていた。盤面は見えない。駒音だけを聞いている。出陣前、宗一は一つだけ命じていた。
――欠けた金が後ろへ下がったら、崖下の裏木戸を開けろ。
金将は後ろへ進めない。将棋を知る者にはあり得ない手で、城の古参だけが知る撤退命令だった。
問題は、弾正も将棋を知りすぎていることだった。
盤は宗一の負けだった。王手を逃れれば三手延びる。正しく指せば、夜が少し長くなる。だが夜を長くするだけでは、崖道に並ぶ女と子が凍える。
弾正が杯を置いた。
「北櫓の兵は二十。西曲輪の火は藁人形。南門番の真瀬は今夜、閂を抜く」
内通者の名まで出した。宗一は盤を見た。欠けた金将は、王の斜め前にいる。後ろへ引けば、弾正に取られる。
「よく調べたな」
「城を取るのに、城主の心までは要らん」
「そこがお前の悪い癖だ」
宗一は欠けた金将をつまみ、盤の後方へ一枡滑らせた。
襖の向こうで、衣擦れが一度した。
弾正の目が駒へ落ちた。
「反則だ」
「城が落ちる夜に、作法を守る男がいるか」
「何の合図だ」
宗一は脇差を盤の横へ置いた。抜けば斬り合いになる距離だ。弾正は駒を見、襖を見、それから宗一の顔へ戻った。問いを重ねれば、自分が合図の意味を知らないと部下へ示す。弾正は誇りを捨てられない。
「投了と受け取る」
「好きにしろ」
弾正は立ち、明朝の開門を命じる書付を残した。宗一は印を押した。偽りではない。明朝、正門は開く。中が空になった後で。
階下から、短い梟の声が聞こえた。鳴戸の合図だった。
弾正が天守を出た瞬間、崖下の裏木戸から太い閂が抜かれた。