次の停留所の私

雪平牧人は、職員室の机に退職届を置いてから、最終バスを逃した。

二十九歳。中学校教師五年目。今日、教室で居眠りしていた生徒を起こし、「やる気がないなら来るな」と言った。生徒は黙って帰り、その母親から電話が来た。父親が入院し、夜明けまで病院にいたのだという。

牧人は退職届を回収しに戻る気にもなれず、暗い停留所のベンチに座った。

午前零時、時刻表にないバスが来た。行き先表示には《二十年後》とある。

扉が開いたので、牧人は乗った。

運転席は空だった。後ろの席に、白髪混じりの男が一人いる。牧人と同じ垂れ目で、同じ場所のシャツにチョークの粉をつけていた。

「遅い」

男は言った。

「誰ですか」

「見て分からないなら、教師を辞めたほうがいい」

「辞めるところです」

「知ってる。三回辞める」

牧人は隣へ座った。

「三回?」

「一回目は明日。二回目は三十四。三回目は四十一」

「で、今は?」

「夜間中学で教えてる」

未来の牧人は、膝を叩いて顔をしかめた。

「宝くじの番号とか」

「覚えてない」

「結婚は」

「その質問を最初にするから二回逃す」

「じゃあ、教師を続けるべきですか」

バスが動き出した。次の停留所までしか話せない、と未来の牧人は窓の表示を指した。

「続けても間違える。辞めても間違える」

「役に立たないな」

「役に立つ話なら一つある。今日、お前が追い返した子は、二十年後、俺の主治医になる」

牧人は息を止めた。

「恨まれてますか」

「退院の日に蜜柑をくれる。あの日、先生が翌朝謝りに来たから、学校へ戻れたって」

未来の牧人は鞄から、角の丸くなった小さなノートを出した。表紙には、現在の生徒の字で《分からないことを書く帳面》とある。最初のページには、数学でも英語でもなく、《先生は、謝るのが怖くないですか》と書かれていた。

「何て答えた」

「怖い、と書いた。だから明日も怖い」

停車ボタンが赤く光った。

「謝りに?」

未来の牧人は肩をすくめた。

「俺は行った。お前は知らない」

扉が開く。牧人が降りると、バスは音もなく消えた。

夜明け前、牧人は生徒の家の前に立った。手には退職届ではなく、コンビニで買った蜜柑の袋がある。

呼び鈴を押す直前、膝が少し痛んだ。

牧人は笑って、もう一度押した。