母の三時間
野々村赳生は毎朝、母の貸出身体へ「おはよう」と送る。末期の神経病で本体を動かせない佳乃江は、午前中だけ健康な六十代型を借り、近所の公園を歩く。画面越しの足音を聞くのが、赳生の日課だった。
誕生日の日、彼は三時間の外出契約を贈った。
二人で海へ行った。佳乃江は砂浜を裸足で歩き、ソフトクリームを半分残し、「自分の歯で冷たいって思えるの、久しぶり」と笑った。
身体レンタルでは、終了時刻に意識が本体へ戻り、貸出身体はその場で回収待機になる。利用者の感情や目的による延長は認めない。それだけの規則だった。
帰りの無人バスが事故渋滞につかまった。
《残り時間 00:12:44》
病院まで二十分。佳乃江の本体は人工呼吸器につながっている。戻った瞬間から鎮静が再開され、もう会話はできないと医師に言われていた。
赳生は延長ボタンを押した。
《次の予約が確定しているため延長できません》
「誰が使うんですか」
サポートは個人情報を理由に答えない。
二人は途中で降り、海沿いの道を歩いた。佳乃江の足取りは借り物とは思えないほど軽い。
「走ってみようか」
「時間ないのに?」
「時間がないから」
母は笑い、先に駆けた。赳生は追いつけなかった。
残り一分。佳乃江は防波堤に座り、夕日を見た。
「病室で目が覚めたら、今日のこと覚えてるかな」
「覚えてるよ」
「じゃあ、起こしに来て」
赳生はうなずいた。
《00:00》
母の身体が隣で静止した。笑った表情のまま、瞳から焦点だけが消える。数秒後、回収モードが起動し、首元に次の利用者名が表示された。
《利用予定者:結婚式参列》
《開始まで十五分》
赳生の端末へ病院から通知が来た。
《野々村佳乃江さんの本体への復帰を確認》
《容体急変》
《蘇生処置を希望しますか》
選択期限は十秒だった。
彼が「希望する」を押す横で、母の貸出身体が再起動した。
知らない女性の声で、「間に合った?」と尋ねる。
同じ唇、同じ頬、さっき母が舐めたソフトクリームの跡。
赳生は答えず、病院へ走った。
背後では、母の身体を着た誰かが迎えの車に乗り、白いドレスの裾を気にしていた。