母の瞬きは六回
伊佐見弦生は毎朝、洗面台の鏡に向かって三つの指示をこなす。右を見る、口を開く、今日の日付を言う。本人確認が緑になれば、給料も診察券も使える。面倒だが、合成映像に人生を奪われるよりはましだった。
昼、病院から緊急通知が来た。
《患者・伊佐見澄江の治療方針が確定しました》
脳梗塞で倒れた母は、昨夜から集中治療室にいる。弦生が病室へ駆け込むと、医師は目を合わせなかった。
「ご本人が延命処置を希望しないと回答されました」
「母は話せません。右半身も動かない」
医師が差し出した端末には、ベッドに横たわる母の顔が映っていた。画面上の母は、ランダムに出された指示に従い、左右を見て、頬を膨らませ、はっきり言った。
『処置を中止してください』
肌のしみも、かすれ声も本物だった。ただし、母はそんなふうに口を動かせない。
医療同意は、病院からの照会後、最初に本人判定を通過した映像だけが有効になる。二つ目以降は、家族が作った都合のよい偽映像かもしれないからだ。
「誰かが作ったんです。もう一度、母を判定してください」
「後発映像は受け付けられません」
弦生はベッド脇へ行った。母の左目だけが動き、彼を追った。幼い頃、二人だけで決めた合図がある。助けてほしいときは六回まばたきする。
「母さん、分かるなら、いつもの合図を」
一、二、三。母のまぶたが必死に閉じる。四、五、六。
弦生はその映像を端末へ送った。判定円が回り、赤く止まった。
《同一間隔の反復運動を検出。生成映像の可能性九九・二%》
「違う! これが母なんです!」
医師は無言で点滴ポンプに手をかけた。画面の中の偽物は自然に目を潤ませ、医師へ微笑んだ。
『息子を困らせないでください』
弦生の端末に最後の通知が届く。
《本人の意思を確認しました。異議申立人の映像はディープフェイクとして保存されます》
母は七回目のまばたきをした。今度は、別れの合図に見えた。
弦生が手を握ると、母の指が一度だけ返した。その反応には判定欄すらなかった。機械が理解できないものは、本人の意思として存在しないことになっていた。