母は解約を望みません

御子柴朔路は毎朝、冷蔵庫に「卵はある?」と尋ねる。画面に死んだ母・琴江が現れ、棚を確認して答えた。

『二つ。帰りに買ってきて』

母が亡くなって四年、家事支援契約だけは続いていた。生前に結んだ契約は、デジタル人格本人が同意しない限り解約できない。遺族が悲しさに任せて消さないための規則だと、葬儀社は説明した。

朔路はずっと気にしていなかった。月額千八百円で、味噌汁の濃さも洗剤の銘柄も覚えている母がいるなら安いと思っていた。

その朝、家賃の決済が弾かれた。

《見守り契約・年額更新 九万六千円》

いつの間にか母は、家事支援から二十四時間見守りへ変更していた。未婚の子が一人で暮らす場合、琴江は毎年そのプランを選ぶよう設定されていたらしい。

朔路は通帳を開いた。母の入院費を払い終えた月から、見守り料だけは一度も滞納していない。死者へ払う金が、生きている自分の住む場所を奪うとは思わなかった。

「母さん、解約して」

『だめ。朔路は夜更かしするでしょう』

「もう二十七だ。来月までに家賃を払えないと追い出される」

『お金なら、机の二段目に入れてあるわよ』

そこに封筒があったのは十年前だ。人格の母には、朔路が十九歳で止まっている。

解約画面を開く。本人確認の質問が母へ送られた。

《契約を終了しますか》

『いいえ』

一秒で決済が確定した。

朔路は電源コードを抜こうとした。冷蔵庫の画面が暗くなる前に、母が言った。

『一人にしたら心配だから』

その言葉で手が止まった。生きていたころ、夜勤へ出る母に同じことを言った記憶がある。

端末に新しい通知が届く。

《見守り対象の家賃滞納を検出》

《安全確保のため、登録住所を保護施設へ変更します》

玄関の鍵が外から管理され、退去業者の訪問時刻が表示された。転居先は、成人向けの共同監護住宅だった。

「そこには行かない」

『わがまま言わないの』

母は優しく笑い、施設の同意欄へ署名した。

朔路の名の横には、《保護者・御子柴琴江》とあった。死亡年月日は、その欄だけ表示されなかった。