水の音が止むまで
砂原由莉は、質問に答える前に必ず天井を見た。
安積冴子警部補は三度目で気づいた。天井ではない。換気口の向こうを流れる水の音を聞いている。証拠品倉庫への放火容疑。砂原は清掃員で、合鍵を持ち、火元の近くから彼女の手袋も出た。鳴海警視は「今夜中に自供を取れ」と命じている。
「火をつけましたか」
蛇口の水が鳴っている間、砂原は黙った。音が止むと、「いいえ」と答えた。
「なぜ、水が止まるまで待つの」
「前の取調べでは、水が流れると質問が変わったから」
「どういう意味?」
「録音に残せない質問をするとき、隣の洗面台を全開にしたんです。息子の補導歴を職場に知らせる、夫の会社にも行く。そう言われた」
冴子は机の下で拳を握った。この庁舎の録音設備は換気口から入る低音に弱い。水道音が重なると、人の声だけが潰れる。古い刑事が知る『故障の作り方』だった。
内線が光った。鳴海からの文字が一行だけ表示される。
――雑談を切れ。手袋の説明を詰めろ。
砂原は画面を見ていない。それでも言った。
「上の人、怒ってますね」
「分かるの?」
「水が強くなった」
換気口の向こうで、確かに流量が増した。誰かが今、この取調室でも同じ覆いをかけようとしている。
「手袋は、誰かに貸した?」
「貸していません。でも、前日に刑事さんが『鑑定に必要』と持っていきました」
「名前は」
水音がさらに大きくなった。砂原は口を閉じ、冴子を見つめた。答えを求めているのではない。この音の内側に入る刑事か、外へ出る刑事かを測っている。
冴子は立ち上がり、取調室の扉を開けた。廊下の洗面台で、鳴海付きの刑事が蛇口に手をかけている。
扉を開けたまま席へ戻り、予備録音機を机上に置く。水音が薄れ、砂原の呼吸が初めて鮮明になった。廊下カメラの時刻を確認すると、前回取調べの録音が乱れた三回すべてで、同じ刑事が洗面台へ立っていた。偶然ではなく、手順として繰り返されている。冴子が書けば、鳴海だけでなく、その手順を黙認した刑事課全体を敵に回すことになる。
「名前を聞きます。ただし、その前に記録します。取調べ妨害の事実から」
冴子は録音開始を確認し、監察宛ての報告書を画面に立ち上げた。