水曜の仮縫い
仕立屋〈木賊洋装店〉の定休日は水曜だった。
夫の晴臣を葬った次の水曜、いとが店を開けると、本人が鏡の前に立っていた。棺に着せた濃紺の背広姿である。
「右の袖が長い」
「死人が腕時計を見るの」
「左右が違うのは職人の恥だ」
「縫ったのは私ですけど」
いとは文句を言いながら、幽霊の袖に待ち針を打った。針は布を抜けて床へ落ちた。
それから晴臣は毎週水曜に現れた。
肩が窮屈だ、襟が浮く、ズボンの折り目が甘い。いとは空気へ印をつけ、存在しない糸で縫い、鏡越しに夫と口喧嘩をした。
「向こうに仕立屋はいないの」
「いても、お前ほど愛想が悪くない」
「ではそちらへ」
「腕が悪い」
四十年一緒に店を守った夫がいない平日は、ミシンの音が広すぎた。だから水曜の悪口だけが、一週間を正しい長さに戻してくれた。
七度目の水曜、晴臣は珍しく注文をつけなかった。
「今日で仕上げにしてくれ」
「まだ背中が余ってる」
「痩せたからな」
「死んでから痩せる人がありますか」
「会うたび未練を削ってる」
いとの指が止まった。
晴臣は鏡の中で笑った。
「背広は最初から、どこも直すところがなかった」
「知ってます」
「知ってて七回も?」
「客が帰らないので」
二人は黙った。店の時計だけが、もう閉店時刻のない午後を刻んだ。
いとは夫のネクタイを結び直した。指先は何にも触れなかったが、晴臣は少し顎を上げた。
「よくお似合いです」
「お前が仕立てたからな」
「代金をいただいてません」
「四十年じゃ足りんか」
「全然」
晴臣は声を立てて笑い、そのまま鏡の奥へ薄くなった。
最後に袖口だけが揺れた。長さは左右ぴたりと同じだった。
翌週から、水曜にも店を開けた。
いとは新しい帳簿の最初の頁に、夫の注文を書いた。
〈濃紺背広一着。直し不要。代金未納〉
請求する相手はいない。
それでも帳簿を閉じるたび、いとは来週も取り立てるような気持ちで、店の灯りを消した。