水槽が曇るまで
海浜アクアリウムの開館前、水科那緒は誰より早く館内を一周した。
ポンプの振動に手を当て、濾過槽の泡を見て、魚が残した餌の数まで記録する。展示企画を立てるわけでも、客前で解説するわけでもない。だから館長の富樫征治は、人員削減の会議で真っ先に那緒の名を挙げた。
「毎日水を眺めて歩くだけだろう。給料泥棒を飼う余裕はない」
那緒が、循環系は生き物と同じで数値が正常でも崩れる前兆があると話しても、富樫は聞かなかった。希少珊瑚の一斉産卵を目玉にした大型企画の三週間前、那緒は契約を打ち切られた。
翌日から、点検は新人二人が端末のチェック欄を埋めるだけになった。
最初にクラゲが傘を閉じた。次に熱帯魚が水面へ集まり、珊瑚水槽の底に白い膜が広がった。表示された酸素濃度は正常だったが、予備配管の逆止弁が半分だけ開き、濾過槽の一角で水が淀んでいた。那緒なら泡の向きで気づいたはずだった。
富樫は薬剤を増やした。水はさらに曇った。産卵イベントは中止になり、休館区域が増え、旅行会社から団体予約を取り消された。飼育員は夜通し魚を避難させ、翌朝の入口には返金を求める列ができた。富樫が削った一人分の人件費より、失った一日の入館料の方が大きかった。
那緒は隣県の小さな潮岬水族園にいた。そこには予算はなかったが、飼育員が彼女の話を最後まで聞いた。那緒は古い濾過槽を組み替え、海水温の変化を利用した循環を作った。長年繁殖しなかった深海珊瑚が、春の夜に初めて卵を放った。
その映像は全国へ生中継された。
同じ夜、海浜アクアリウムでは濁った大水槽から魚を移す作業が映り込み、二つの映像がニュース画面に並んだ。
翌朝、海浜の最大スポンサーだった観光企業が両館を訪れた。富樫は改修費の追加支援だと思い、会議室で頭を下げた。
しかし担当役員は、契約終了通知を富樫の前へ、五年間の共同事業契約を那緒の前へ置いた。
「私たちが支援したかったのは建物ではありません。水科さんが守る海です」
那緒が契約書を開くと、潮岬水族園の新館名が正式に決まった。