油の細線
午前零時、閉鎖中の東辰ビルで、受付机の中央に小包が現れた。正面玄関も地下駐車場も、二十三時以降の入退館記録はゼロ。監視映像にも廊下を通る人物はいない。それなのに箱の中には、社長室から消えた合併契約書が入っていた。
夜間に残っていたのは、秘書の大崎、警備主任の桐谷、清掃員の船橋の三人。大崎は十階の会議室で議事録を整理し、桐谷は監視室、船橋は各階のごみを集めていた。三人とも受付前のカメラには一度も映っていない。しかも受付机は壁から三メートル離れ、窓も郵便受けもない。映像の死角から手を伸ばすことさえできなかった。
確認できた手掛かりは三つだけだった。箱の側面に、幅一センチほどの黒い機械油の線が走っている。送り状の一部には、四角い格子に押しつけたような浅い凹みがある。そして地下二階の警備端末には、桐谷の暗証番号で「書類搬送機」が一度だけ起動された記録が残っていた。
大崎は契約破棄を望んでいた。船橋は下請け会社の元社員で、合併されれば古い不正が闇に沈む。桐谷には多額の借金がある。動機だけなら、誰にでも契約書を盗む理由があった。大崎は箱の油を『清掃機械のもの』と言い、船橋は格子跡を『積み重ねた箱の跡』と説明した。桐谷だけは、搬送機は十年前に撤去されたはずだと言い切った。
私は受付机の背後にある銀色の板を押した。今は観葉植物で隠されているが、そこは旧銀行時代の書類受取口だった。地下金庫と受付を小型の箱で結ぶ搬送機で、改装後も非常用として残されている。出口の格子と油を見れば、小包の通った道は一つしかない。
「桐谷さんは地下で契約書を箱に入れ、搬送機へ載せた。レールの油が側面に付き、停止時に出口格子へ当たって送り状がへこんだ。受付前を歩かずに箱を出せる唯一の方法です。起動記録があなたの番号なのは、誰かに盗まれた番号だからではない。搬送機は監視室からしか解錠できず、その鍵はあなたの腰にある。届いたのではなく、建物の内部を上がってきたのです。撤去済みだと思っていた者には使えません。動くことを知り、警備番号で目覚めさせたあなたにしか、この無人の配達はできません」