洗わない花桶

花屋の閉店札を裏返したあとも、紬希は店内の照明を消せずにいた。

店先には空になった黒い花桶が八つ並んでいる。いつもなら水を捨て、洗剤でぬめりを落とし、逆さにしてから帰る。翌朝の自分が気持ちよく働けるようにするためだ。けれど今日は、昼過ぎから頭の奥が重く、茎を切るたびに鋏の音が遠く聞こえた。

最後の客に渡したのは、黄色いラナンキュラスの小さな花束だった。包み紙を留めるテープを二度貼り直したせいで、閉店時間を七分過ぎている。店長は先に帰り、レジ横には「戸締まりよろしく」とだけ書かれた付箋が残っていた。

紬希は一つ目の花桶を持ち上げた。水を吸った底が手首に重い。流しまで運び、蛇口をひねる。冷たい水に指を入れた瞬間、ふっと吐き気がした。

休みたい、と思った。

その言葉が浮かぶと、すぐに別の声が重なった。これくらいで。みんな疲れている。明日の人に迷惑をかける。自分が選んだ仕事なのに。

専門学校のころから、紬希は疲れを「好きな仕事の代金」だと思っていた。好きなら払えて当然で、払えない日は向いていない。だから頭痛薬を飲み、笑顔を作り、誰も頼んでいない床の水滴まで拭いてきた。

流しの上の鏡に、青白い顔が映っている。紬希は視線を外し、濡れた花桶を床へ戻した。残り七つが黒い口を開けて待っていた。

レジの下から伝票の裏紙を取り出し、太いペンで書く。

「花桶、洗えていません。明朝やります」

そこまで書いて、明日の早番が自分ではないことに気づいた。手が止まる。謝罪を書き足そうとして、紬希はペン先を上げた。

「頭痛のため、今日はここまでにします」

二行目だけを足した。すみません、は書かなかった。

花桶を店の奥へ寄せ、床にこぼれた水だけをモップで一度拭く。照明を落とすと、冷蔵ケースの花々が暗がりで輪郭を失った。作業を残した店は、閉じ忘れた口のようで落ち着かない。それでも紬希は、鍵を二度確認する代わりに一度だけ回した。

外は小雨だった。駅まで走ればいつもの電車に間に合う。紬希は走らず、軒下で傘を開いた。明朝、誰かが黒い花桶を見つける。少し困るかもしれない。けれど今夜の紬希は、その困りごとまで片づけてから倒れる必要はなかった。

傘に雨粒が増えていく。紬希は帰宅後の予定から「洗濯」を消し、まだ空いている布団のことだけを考えて歩いた。