海の向こうの灯台

 海は、いつ見ても凪いでいた。

 波音も潮の匂いもなく、白い砂に残した足跡は何日たっても消えない。学校の図鑑には海鳥が描かれていたが、この町へ飛んでくる鳥は一羽もいなかった。九歳の瑛奈は、それが自分たちの海の普通だと思っていた。

 父は対岸の灯台で働いている。夜になると、黒い空の下で小さな光がまたたいた。

 短く二度、長く一度。

「おやすみ、の合図よ」

 母に教わり、瑛奈も窓辺のランプを同じように点滅させた。父の休暇は三十日後。その日には港へ迎えに行き、三人で温かいシチューを食べる約束だった。

 二十二日目、光の調子が変わった。

 短く三度、長く三度、短く三度。

 瑛奈にも知っている合図だった。

「助けて、だよね」

 母は通信機へ走った。前夜の嵐で対岸への回線は切れ、救助隊は港から出られないという。灯台の予備電源は残りわずかだった。

 瑛奈は窓に張りつき、ランプを点けた。

 短く二度、長く一度。

 おやすみ。

 返事はない。

 もう一度。さらにもう一度。

 やがて対岸で、弱い光が一度だけ灯った。

「見えてる、って」

 母は瑛奈を抱きしめた。

 救助隊が出たのは、それから六時間後だった。海を渡る舟は使わなかった。車輪の大きな救難車が、灰色の海面へ轍を刻んで進んだ。

 そこで初めて、この海に波がない理由が分かる。

 そこは地球の海辺ではなかった。

 月の〈晴れの海〉。砂に見えたものは月の塵、港は宇宙船の発着場、父の灯台は対岸の航行標識だった。黒い空が晴れないのも、足跡が消えないのも、海に一滴の水もないからだった。

 救難車が戻るころ、低い地平の上に地球が青く浮かんでいた。

 父は担架の上で目を開け、瑛奈の手を握った。

「灯り、見えたよ」

 瑛奈は泣きながら笑った。

 海が海でなくても、対岸で待つ人のために灯す光は、地球の灯台と何も変わらなかった。