海風が直すパン窯

ドゥランの前職は、北方軍の炊事隊長だった。

名ばかりの隊長で、実際には夜明け前から千人分の生地をこね、焦げた鍋を磨き、欠員が出れば眠らず二日目へ入った。袖口の焼け焦げた白衣は、退職して三か月たっても捨てられず、海辺の椅子に掛けてある。

彼が買った小さなパン屋は、潮風で壁が剥がれ、窯には指ほどの亀裂があった。ただし、古い竈神の加護が残っていた。

夜、店を閉めて眠ると、煉瓦が自分で並び替わる。蝶番は錆を吐き出し、破れた日除けは糸を伸ばして縫い合わさる。さらに窯は、近所のパン職人から預かった生地を指定時刻に焼き、受取箱へ入れてくれた。ドゥランの取り分は、窯使用料の一割だけだ。

朝、受取箱が空になるたび、貝殻の会計板が鳴った。

《窯貸出料を受領。今週の食費を達成》

その音を聞いた直後、軍用通信紙が赤く染まった。

『補給隊が混乱している。今夜から復帰せよ。命令だ』

命令という二文字を見ただけで、腕が勝手に袖をまくりそうになる。ドゥランは白衣の焦げ跡を指でなぞり、深く息を吐いた。

「退職者には命令できません」

『国境が動いている。愛国心はないのか』

「あります。だから、兵の食事を一人に依存させる仕組みへ戻りません」

返事を送ると、紙を窯へ放り込んだ。炎は青く一度揺れ、灰だけを残した。

浜の子どもたちが受取箱を開け、温かなパンを抱えて走っていく。窯を借りた若い職人は「急ぎませんから、また明後日」と書き置きを残した。その一文をドゥランは二度読んだ。軍では、すべてが至急だった。パンは発酵する時間を縮めればまずくなるのに、人間の休みだけは平気で削られた。彼は自分用の一個を割り、湯気が消えるまでゆっくり食べた。

正午、突風で店先の板が外れた。ドゥランが立ち上がるより早く、板はふわりと戻り、釘が自分から木へ沈む。店番の粘土人形が、焼き上がった丸パンを棚へ並べた。

今日はもう、彼の手を必要とするものがない。

ドゥランは戸口に〈御用の方は箱へ。店主は海へ〉と書き、釣り竿を肩に担いだ。白衣は椅子に残したまま、裸足で波打ち際へ降りていった。