消された「いい子」
碧依は、押し入れから出した服を三つに分けていた。持っていくもの、捨てるもの、母へ返すもの。
返す箱には、紺のカーディガンと膝下丈のスカートが入っていた。就職祝いに母が選び、その後も帰省のたびに「それを着なさい」と出してきた服だ。二十七歳になった今も、袖を通すと高校の面談へ行くような気持ちになった。
箱の写真を撮って母へ送る。
〈この二着、そっちに返すね〉
すぐに既読がついた。
〈まだ着られるでしょう〉
〈碧ちゃんは派手なもの似合わないんだから〉
碧依は「碧ちゃん」の四文字を見た。母が機嫌よく指示するときの呼び方だった。
〈着られるけど、着ない〉
返事を送ると、次のメッセージが一瞬だけ表示された。
〈いい子なら、こんなことで意地を張らないで〉
直後に、〈メッセージの送信を取り消しました〉へ変わった。
消えたはずの「いい子」が、箱のふたの上に残っているようだった。碧依はガムテープを切りかけて手を止める。
〈今の、読んだよ〉
母からは何も来ない。
〈これからチャットでは、碧依って呼んで〉
〈いい子かどうかで、私の返事を決めないでほしい〉
送信したあと、胸の奥が遅れて痛んだ。母を責めたかったわけではない。ただ、返す服と一緒に、呼ばれ方まで箱へ入れたかった。
十分ほどして、通知が鳴った。
〈碧依、送料は着払いでいいです〉
句点まで硬い返事だった。それでも名前は正しかった。
碧依は送り状の品名欄に「衣類」と書き、箱を閉じた。ふたの中央に油性ペンで、母の住所ではなく、自分の字で大きく書いた。
チャットをさかのぼると、母の頼みの前にはいつも〈碧ちゃんはいい子だから〉があった。親戚への電話、苦手な従姉との食事、急な帰省。褒め言葉のあとに断れない用事が続く。碧依は送信取消の画面を保存しなかった。証拠にして母を追い詰めたいのではなく、消されても自分が読んだことだけは、自分で認めておきたかった。
箱の中には、母が選んだ服だけが入っている。碧依という名前まで送り返すわけではない。むしろ今日、初めて自分の側へ取り戻したのだ。
――返すもの。