消灯後の一音

音楽室の窓だけ、夜九時を過ぎても少し開いていた。

昼休みに内側の鍵を外しておいたのは私だ。彼女はコンクールへの出場を親に反対されていた。音楽では食べていけない。受験に集中しなさい。言われたことは正しく、だからこそ、家でピアノへ触れなくなった。

私たちは裏門の低い塀を越えた。

「見つかったら退学かな」

「せいぜい反省文」

そう言いながら、二人とも声が震えていた。

月明かりだけの音楽室で、彼女はピアノの蓋を開けた。鍵盤は暗く、白と黒の境目も曖昧だった。

「録音、お願い」

私のスマートフォンを譜面台へ置く。彼女が弾くのは、応募締切が明日の作曲コンクールの曲だった。家族には出さないと約束したらしい。

最初の一音が、広い校舎へ落ちた。

昼間なら吹奏楽部や廊下の声に紛れる音が、夜は壁を伝ってどこまでも響いた。私は扉の外を見張りながら、曲を聴いた。途中で何度か指が止まり、そのたび彼女は最初からやり直した。

四回目、警備員の懐中電灯が一階を横切った。

「もうやめよう」

私が囁くと、彼女は首を振った。

「あと一回だけ」

その顔は、昼間の優等生ではなかった。褒められるためでも、将来の役に立つためでもなく、ただ最後まで音を置きたい人の顔だった。

五回目は、間違えなかった。

最後の和音が消えるまで、私たちは動かなかった。

彼女は録音を確認し、応募画面を開いた。送信ボタンの上で指が止まる。

「これを出したら、家で嘘をついたことになる」

「出さなかったら、自分に嘘をつく?」

彼女は泣きそうに笑った。

送信。

小さな音がした。夜の学校で鳴ったどの音よりも軽かった。

帰り道、私たちは見つからなかった。翌月、彼女の曲は入選した。家族にはそのとき初めて知られ、長い話し合いになった。

すぐに認めてもらえたわけではない。

それでも彼女は、結果より先に、自分の音を消さなかった。

卒業式の日、音楽室の前を通ると、彼女が私の袖を引いた。

「一音だけ弾いて帰ろう」

今度は昼で、扉も開いていた。

けれど最初の一音を聞いた瞬間、私はあの夜の暗さと、送信ボタンを押した指を思い出した。