湖底まで三十二メートル
昭和四十五年、ダム湖に沈む村で、生方くに枝と山岬鋼平は婚約していた。
くに枝の家は集団移転地の団地へ入る。
寝たきりの祖母を病院へ通わせるには、町に近いほうがよかった。
鋼平の家は湖を見下ろす高台へ移り、寺と墓地の世話を続ける。
先祖の骨を置いて、自分だけ町へ行くことはできなかった。
「結婚したら、どっちへ住む」
村が沈む一週間前、鋼平が訊いた。
「お祖母ちゃんがいるあいだは団地」
「寺は毎朝、鐘を撞く人が要る」
「私が高台へ行ったら、病院まで二時間よ」
「俺が団地へ行ったら、墓を守る人がいない」
二人は、どちらの事情も正しいと知っていた。
正しいことが二つあると、恋は答えにならなかった。
最後の日、村人たちは学校の校庭へ集まり、旧住所を書いた木札を燃やした。
くに枝と鋼平も、並んで自分たちの家の札を火へ入れた。
「手紙を書く」
鋼平が言った。
「毎週」
「結婚は?」
「祖母が元気になったら」
「寺に後継ぎが来たら」
二人は笑った。
どちらも、来ないかもしれない日だった。
最初の一年、手紙は続いた。
団地の窓から見える工場の煙。
高台へ移した鐘の音。
けれど、くに枝は祖母の介護と縫製工場の仕事に追われ、鋼平は寺の再建と山仕事で夜まで戻らなかった。
月に一度が、季節に一度になった。
最後の手紙には、別れようとは書かなかった。
〈こちらは元気です。湖の水位は三十二メートルになりました〉
二人の恋は、村と一緒に静かに沈んだ。
四十年後、記録的な渇水で湖底が現れた。
見学会に来たくに枝は、崩れた学校の階段で鋼平と再会した。
二人とも、伴侶を見送り、白髪になっていた。
「ここ、二段目に傷があった」
くに枝が言う。
「おまえが転んだ跡だ」
「鋼平が押したから」
「追いかけるのが遅かった」
昔と同じように笑えた。
水位計の標柱には〈満水時・三十二メートル〉とある。
二人は頭上を見上げた。
普段なら、その高さまで水がある。
「ずいぶん大きなものを失ったね」
くに枝が言う。
家、畑、学校、祭りの道。
そして、同じ村にいれば自然に続いたかもしれない二人の未来。
鋼平はうなずいた。
「失ったときは、村がなくなることしか見えてなかった」
見学終了の笛が鳴った。
湖へ水が戻れば、階段も傷もまた沈む。
二人は別々のバスへ乗った。
今度は手紙を約束しなかった。
湖底まで三十二メートル。
それは水の深さではない。
失ってからでなければ測れなかった、故郷と恋の厚みだった。