滅菌袋の青い点
黒く変わるはずの点が、青かった。
歯科医院の午後、診療台はすべて埋まり、洗浄室には器具のトレーが十八組積まれている。高圧蒸気滅菌器から取り出した袋の端で、処理済みを示す小さな点だけが色を変えていない。
荒巻梢は白衣のポケットにある退職届へ触れた。ここで最後になるはずの月曜日にも、確認を急がせる声は変わらなかった。
袋はまだ温かく、洗浄室には金属と蒸気の匂いがこもっていた。外からは吸引器の音と、患者を呼ぶ受付の声が重なる。急げば誰にも気づかれない程度の、ほんの小さな色の違いだった。
「機械によって濃さが違うよ。次の予約が詰まってるから運んで」
主任は一袋を持ち上げた。梢は渡さなかった。記録紙では温度は百三十四度に達している。しかし保持時間の欄がゼロになっていた。扉が閉まったことを検知するスイッチだけが、一度点滅している。
「この十八組、全部隔離します」
「大げさ。患者さんを待たせるの?」
「使える証拠がない器具で、患者さんを座らせる方が待たせます」
梢は予備のトレーを診療室へ回し、予約順を処置内容ごとに組み替えた。検診だけの患者から先に案内し、外科処置は再滅菌が終わる時刻へずらす。受付には説明文を一枚で渡した。
新人が、青い点を見つめたまま言った。
「私、詰め方が悪かったのかもしれません」
「自分を原因にする前に、記録を見よう。次からは色と保持時間を二人で確認する。どちらか一つでも違ったら、運ばないで」
再運転では点が黒く変わった。業者が確認すると、扉のスイッチに接触不良があった。診療は三十分遅れたが、器具は一組も使われていない。
院長は、〈担当者判断による診療遅延〉と書かれた報告書を梢へ差し出した。
梢は署名する前に、原因欄へ〈扉スイッチの接触不良〉、結果欄へ〈未滅菌の疑いがある器具は使用ゼロ〉と追記した。報告書の写しを取り、新しい二人確認表と一緒に新人へ渡す。
止めた人の名前だけが残り、止めたことで起きなかったことが消える職場には、もう慣れたくなかった。
退職届を院長の机へ置き、未消化の有給休暇を記した申請書も重ねた。
「次の職場を決める前に、まず二週間、休みます」
梢は空になった白衣のポケットを、手のひらで確かめた。