灰色のパーカーの行方
十九時二分、加賀谷浬は穂積汀のマンションの宅配ロッカー前にいた。
〈灰色のパーカー、返しに来た。三分でいいから話せない?〉
送ってから二分。既読はつかない。
紙袋の中のパーカーは、もともと浬のものだった。汀が泊まった翌朝、寒いと言って着て帰り、それから二年、彼女の部屋に置かれたままだった。右のポケットには、二人で観た深夜映画の半券が入っている。裏に汀が、眠そうな字で〈次は明るい映画〉と書いた。
別れ話のあと、汀から届いたのは「パーカー、返すね」の一文だけだった。
浬はそれを、全部返すという意味だと思った。
十九時六分。未読。
ロッカーの操作画面に、預け入れ期限の数字が点滅する。引っ越し業者のトラックは、道路の向こうでハザードを焚いて待っていた。今夜ここを出れば、浬は二百キロ離れた支店へ行く。
管理人が通りかかり、紙袋を見て言った。
「穂積さんなら、さっき走って出ましたよ。川沿いのベンチがどうとか」
浬は顔を上げた。川沿いのベンチは、二人が初めてキスをした場所だった。
だが汀がそこへ行った理由までは、管理人も知らない。
十九時八分。浬はもう一度送る。
〈俺はロッカー前。転勤、断れなかった。待っても返事がないなら、これで終わりにする〉
送信済み。未読。
紙袋を入れると、扉は重い音で閉じた。暗証番号を汀の誕生日にしたことが、ひどく未練がましく思えた。
十九時十一分、引っ越しトラックの助手席に乗った瞬間、携帯にメールが届いた。汀の古いタブレットからだった。
〈スマホを修理に出してる。あなたのパーカーを着て、川のベンチで待ってる。返したいのは服じゃなくて、昨日の「もう無理」って言葉。取り消したい〉
送信時刻は十九時一分。自宅の電源が落ち、予備端末からの送信が遅れたらしい。
浬はトラックの窓からマンションを見た。ロッカーの中には、同じ灰色のパーカーがもう一枚ある。汀が着ているものと、浬が返したもの。二人は同じものを一着ずつ買い、洗ううち、どちらがどちらか分からなくなっていた。
運転手が「鍵、返しました?」と尋ねた。
浬はポケットの合鍵を握った。川までは走れば七分。トラックは今なら止められる。
それでも浬は、管理人室の返却口へ合鍵を落とした。