焚き火は返事を急がない
宇賀神遼一は、ソロキャンプの荷物を三日前から点検した。
予備の電池、予備のガス、予備の靴下。会社では設備保守を担当し、「もしも」を一つずつ消すのが仕事だった。山へ行く日まで、抜けがないか何度もリストを見直した。
ところがキャンプ場へ着くと、小雨が降り始めた。
薪は湿り、着火剤へ火をつけても白い煙ばかり出る。遼一は風向きを変え、細枝を足し、動画で見た方法を順番に試した。それでも炎はすぐ消えた。
「休みに来てまで障害対応か」
誰もいない区画で呟くと、雨粒がタープを細かく叩いた。
遼一はとうとう火吹き棒を置いた。
椅子へ深く座り、湯だけガスバーナーで沸かす。粉末の珈琲を溶かすと、湿った森の匂いに苦い香りが混じった。
何もしないでいると、雨の音には強弱があると分かった。葉に落ちる音、地面へ落ちる音、タープの端からまとまってこぼれる音。仕事の警報音と違い、どれも返事を求めなかった。
雨が細くなったころ、薪の表面も少し乾いていた。
遼一は細い樹皮をほぐし、今度は急いで太い薪を載せなかった。小さな炎の周りへ手をかざし、呼吸するように風を送る。
火は一度揺れ、二度縮み、それから枝の先へ移った。
「了解、ゆっくりでいい」
誰に言うでもなく答えた。
夕飯は、鉄の小鍋で豆とベーコンを煮た。玉葱を刻み、缶詰のトマトを加える。蓋の隙間から湯気が立ち、ベーコンの脂と薪の煙が夜気へ広がった。
遼一は熱い豆を一匙ずつ食べた。誰かの食べる速さに合わせる必要も、会話の切れ目を探す必要もない。鍋が冷めないうちに急ぐ必要さえなかった。
夜、雨は完全に上がった。
焚き火の向こうに、木々の隙間から星が三つだけ見えた。遼一は数えたあと、四つ目を探すのをやめた。
翌朝、荷物を片づけると、未使用の予備品がたくさん残った。
それでもリストには丸をつけず、最後に〈火がつくまで待った〉と書いた。
上着には薪の煙、指先には珈琲と濡れた土の匂いが染みていた。帰りの車でも、その香りだけは窓を開けずに連れて帰った。