焦げ目のない卵焼き

木暮玻奈は、甘い卵焼きが嫌いだった。

母が作るものは砂糖が多く、端だけ茶色く焦げていた。高校を出て一人暮らしを始めてからは、卵焼き器さえ買わなかった。それなのに入院前夜、玻奈は実家の台所で母の黄色い卵焼き器を握っていた。

明日から長い治療が始まる。味覚が変わることもあると説明されたとき、最初に浮かんだのが、嫌いだったはずの味だった。

母は居間で入院用品に名前を書いている。呼べば来る距離だが、玻奈は呼ばなかった。卵を三つ割り、砂糖を小さじ一だけ入れる。母の半分だ。箸を立てず、白身を切るように混ぜる。

油を薄く引き、一層目を流す。火が強すぎて端が泡立った。玻奈は慌てて巻き、二層目を重ねる。形は歪み、角が丸くなった。

母がいつの間にか戸口に立っていた。

「それ、私のより甘くないでしょ」

「食べてから決めて」

玻奈は弱火にした。焦げ目をつけないことだけに集中すると、病室の白さも、同意書の署名欄も頭から消えた。最後の卵液を流し、巻き終えたものを巻きすに移す。熱いうちに形を整えると、手のひらへ頼りない弾力が返ってきた。

二人で食卓につき、四切れずつ分けた。母は端から食べ、何も言わず二切れ目に進んだ。玻奈も口に入れる。甘さは控えめなのに、記憶よりずっと母の味がした。

皿に一切れだけ残った。母がラップを取りに立つ前に、玻奈はそれを箸で半分に割った。

「朝、半分ずつ」

母はうなずき、保存容器を出した。玻奈は二つの断面を上にして並べ、蓋が卵に触れないことを確かめる。

母は黄色い卵焼き器を流しへ運び、焦げついた縁を爪でこすった。玻奈はそれを取り上げず、隣で包丁とまな板を洗った。母のエプロンのポケットから、入院着へ縫いつける布の名前札が一枚落ちた。玻奈は拾い、濡れないよう冷蔵庫の取っ手へ挟む。母は何も言わず、卵焼き器の水を切った。二人の手元だけが、朝の続きを準備していた。

黄色い鍋だけは、朝まで水切りかごへ残した。

四隅を順に押すと、最後の一角が小さく鳴って閉じた。