焼きたては眠っている
久慈原澄が菓子工房を逃げるように辞めた夜、白い調理着は砂糖ではなく汗で硬くなっていた。
胸元の刺繍はほつれ、靴底は片方だけ薄い。端末には未読の緊急連絡が二十六件並んでいた。「明日の婚礼菓子が足りない」「夜番が来ない」「熱があるなら厨房で休め」。最後の一文を見て、澄は笑う力までなくした。
山のふもとの空き家で目覚めた能力は、無限収納だった。中では時間が進まない。試しに焼きたてのタルトを一つ入れ、三日後に取り出すと、縁の生地はまだぱりりと鳴り、林檎から湯気が立った。
澄は村の広場に小さな販売棚を置いた。夜のうちに焼いた菓子を収納し、棚の魔法鍵とつなぐ。客が銅貨を入れると、無限収納から一個だけ取り出される。売り切れも腐敗もなく、澄が眠っている間にも棚は働いた。
販売棚には、子どもが背伸びして銅貨を入れ、木こりが仕事帰りに二つ買っていった。澄が窓から見ているあいだにも、棚は一度も彼女を呼ばない。釣銭の不足も、追加焼成の催促もない。なくなれば次の種類へ切り替わり、売上は自動で分けられる。今日は売れ残っても、明日に回せる。焦りの匂いは厨房から消えていた。
昼過ぎ、枕元の受取票が淡く光った。
《自動販売収益:本日分、銀貨四枚》
《今月の家賃・食費を確保しました》
多くはない。けれど、朝四時に怒鳴り声で起こされない暮らしには十分だった。
そこへ元工房長から音声が届く。
「戻れ。王女の注文だ。お前の折り込み生地でなければ間に合わん」
昔なら、王女という二文字だけで胃が縮んだ。厨房では名誉と呼ばれた仕事ほど、徹夜と火傷を連れてきた。澄は自分の指先を見た。ひび割れはもう塞がり、新しい爪が薄桃色に伸びている。
澄は返事を打った。
《お断りします。私の手は、もうあなたの納期では動きません》
すぐに着信が鳴ったが、端末ごと無限収納へ放り込んだ。音は入口を越えた途端に消えた。
澄は窓を少し開け、焼いたばかりのパンの香りを部屋に残したまま、掛け布団を顎まで引き上げた。山雀が一度鳴くあいだに、彼女は二度寝を始めていた。