焼けない塩帳
姜陌然が河塞へ持ち込んだ塩帳には、一字も書かれていなかった。
河塞を接収した燕軍は、商人も旅僧も通さない。ただし塩税の帳簿だけは別だった。包囲軍自身が沿岸の塩場を接収しており、税額の違いは軍糧の違いになる。帳簿は必ず検め、必ず城内の倉曹へ渡す。
陌然はその決まりに命を預けた。
紙は三日前、刻字板へ押しつけて乾かした。墨はない。文字は紙の繊維がわずかに潰れただけで、指で撫でても分からない。濃い塩水へ浮かべれば、潰れたところだけ水を吸わず、白い線になって現れる。
検問所で霍廷義が帳簿をめくった。
「白紙を運ぶ役人がいるか」
「塩場が焼けました。数字がないことを報告する帳です」
「見えぬ字でも書いたか」
廷義は炭火へ一枚をかざした。蜜、米汁、果汁。密書に使われる汁は、火で褐色になる。紙の端が焦げても、何も浮かなかった。
次に水を垂らした。陌然の喉が動いた。真水では字は出ない。だが紙が柔らかくなれば、圧した跡を斜めから読まれるかもしれない。
廷義は濡れた紙を爪で掻き、舌打ちした。
「無駄な帳だ」
「無駄を数えるのも役人の仕事です」
頬を打たれ、奥歯が一本折れた。それで済んだ。
城門へ着くまで、陌然は帳箱を背負ったまま泥の堤を歩かされた。護送兵は何度も箱を川へ捨てるふりをした。彼が慌てれば、白紙に価値があると悟られる。陌然は一度も振り向かず、折れた歯の穴へ舌を当て続けた。血の味だけが、まだ任務が終わっていないと教えた。
河塞の倉曹・盧玄策は、白紙を受け取ると扉を閉めた。甕から飽和した塩水を汲み、一枚ずつ浮かべる。月明かりの下、白い線が骨のように現れた。
〈子の刻、上流より火筏十二。水門の鎖を沈めよ。敵船は下流へ逃げる〉
玄策は二枚目も読んだ。そこには帰路の指示がなかった。
「書き手は、おまえを捨てたか」
陌然は折れた歯を掌へ吐いた。
「間者に帰路を書けば、それも敵に読まれます」
城外で一番太い太鼓が鳴った。上流の闇に、火が十二個並んだ。
玄策が濡れた帳を握り潰す。
「水門を開けろ」
石壁の下で、黒い河が口を開いた。