熟れすぎたトマトの夕方
木津川咲良が玄関を開けると、隣室の景子が赤いボウルを抱えて立っていた。
「実家から届きすぎたの。もう柔らかいから、今日中に食べないと」
中には、皮の張りを失ったトマトが六つ入っていた。
咲良は在宅で挿絵を描いている。締切前は三日ほど誰とも話さないことがある。その日も、朝から口にした言葉は宅配員への「ありがとうございます」だけだった。
「一人じゃ食べきれません」
「私も一人。だから足すと二人」
景子はそう言って、台所を借りてもいいかと尋ねた。
トマトを湯へ入れると、薄い皮がするりと剥けた。景子が卵を溶き、咲良が葱を刻む。フライパンで卵を大きくまとめ、いったん皿へ逃がす。次にトマトを炒めると、角が崩れて赤い汁が広がった。
「砂糖を入れるんですか」
「ほんの少し。酸っぱいものと喧嘩しないため」
卵を戻すと、黄色と赤がやわらかく混じった。
景子は半年前に夫を亡くした。咲良はそのことを知っていたが、廊下で会えば天気の話しかしてこなかった。
「昔は夫がトマト嫌いでね。これを出すと、卵だけ拾って食べたの」
景子は笑った。
「今は全部、私の分」
声の最後だけが少し細くなった。
二人は窓際の小さな机で、トマトと卵の炒め物をごはんにかけた。熱い汁が米へ染み、卵はふわりと甘い。柔らかくなりすぎたトマトは、形を失ったぶん、皿の全部へ味を渡していた。
「崩れた方が、おいしいこともあるんですね」
咲良が言うと、景子は匙を止めた。
「そう思える日もある、くらいでいいのよ」
食後、二人は赤い汁の残った皿をパンで拭った。景子はそれを夫がよくしていたと笑い、咲良も真似をした。
ボウルを洗って返すと、景子は一つだけ固いトマトを置いていった。
「これは明日用」
「また一緒に?」
「明日は自分で食べなさい。話したくなったら、壁を二回叩いて」
その夜、咲良は机へ戻る前に、久しぶりに窓を開けた。隣から食器の重なる音がする。部屋にはまだ、炒めた葱と熟れたトマトの甘酸っぱい匂いが漂っていた。