父親席は空けてある
百合絵が七歳でうちへ来た日、持ち物はスーパーの袋一つだった。
歯ブラシ、片方だけの靴下、濡れた絵本。名前を尋ねても答えず、食卓の下から朝まで出てこなかった。
私は毎朝、彼女の髪を結んだ。最初は左右の高さが違い、学校で笑われた。弁当の卵焼きは焦がしたし、運動会では場所取りに失敗した。それでも百合絵は、帰ると必ず私を捜した。
十四歳で初めて家出した夜も、私は駅前を走り回った。
「迎えに来ると思った」
交番の椅子で、彼女は泣きながら笑った。
十八歳でうちを出るとき、百合絵は玄関で何度も振り返った。就職、引っ越し、失恋。電話は少しずつ減ったが、人生の節目には必ず呼ばれた。
そして今日、彼女は結婚する。
私は式場へ一番に着き、席次、薬、予備の靴まで確認した。新郎には、百合絵は緊張すると左の耳たぶを触ること、林檎に弱いこと、怒ったときほど「平気」と言うことを伝えた。
「新婦のお父様はこちらです」
係の人が、最前列の席を示した。
「私は父親ではありません」
名札には〈親族席〉とある。百合絵の実父は来ない。七歳の彼女を冬のベランダへ締め出した男は、招待状にも書かれていなかった。
私は県立児童養護施設で働いていた、ただの児童指導員だ。百合絵は、私が担当した大勢の子どもの一人だった。書類上の続柄は、最初から最後まで空欄だった。
「では、後方のお席へ」
頷きかけたとき、控室の扉が開いた。
花嫁姿の百合絵が、裾を抱えて歩いてくる。左の耳たぶを触っていた。
「そこ、空けておいてって頼んだの、私です」
「でも私は――」
「父親じゃない。知ってる」
百合絵は私の腕を取った。
「髪を結んで、弁当を作って、家出した私を見つけて、何度でも迎えに来た人です」
係の人が席札を裏返した。裏には百合絵の字で、〈育ててくれた人〉と書かれていた。
扉の向こうで音楽が始まる。
私は父親ではなかった。
それでも彼女が歩き出す速さも、怖いときに握る力も、誰よりよく知っていた。