珈琲が冷める三百秒
十四時ちょうど、会議室のドアが閉まる。
篝谷唯斗は紙コップのへこみを親指で押し戻し、投資委員長へ最終資料を差し出した。五分後までに承認印を得る。それが新規事業部長へ上がる条件だった。
委員長は決まって言う。
「数字は嘘をつかない。人間はつくがね」
唯斗は笑い、売上成長率三十二パーセントを示す。質問は二つ。懸念は一つ。十四時四分五十九秒、朱肉をつけた印鑑が紙へ下りる。
紙コップが倒れた。
十四時ちょうど。コーヒーはまた熱く、資料は乾いていた。
二周目は人件費の質問を先回りした。三周目は撤退条件を一枚削った。四周目は責任者欄へ部下の名前を入れた。印鑑は毎回、紙へ触れる直前に遠ざかった。
「数字は嘘をつかない。人間はつくがね」
その台詞だけが、回数を重ねるほど重くなった。
七周目、唯斗は紙コップのへこみを見て気づいた。最初からへこんでいたのではない。自分が力を込めるたび、同じ場所が潰れていた。
資料の元データを開く。成長率のセルには「3.2」。提出版では小数点だけが白い図形で隠され、「32」に見えている。三日前、自分で置いた図形だった。
忘れていたのではない。忘れたふりをしていた。
会議室の外では、責任者欄へ名前を入れられた部下が、修正版の資料を抱えて待っている。彼は昨夜、『小数点を確認してください』と三度メールしていた。唯斗は全部を未読のままアーカイブし、今朝、彼へ失敗時の謝罪文まで書かせていた。
八周目、唯斗は説明を完璧にした。委員長は満足げにうなずき、印鑑を持ち上げる。成功条件まで、あと一動作。
唯斗は資料を引いた。
赤いペンで、表紙から損益表まで大きく二文字を書いた。
「虚偽」
会議室が静まる。
「何の真似だ」
「数字は嘘をつきません。小数点を隠したのは、僕です」
彼は改竄前のファイルを全員へ送信した。昇進候補の表示が端末から消え、同時に社内監査の受付番号が発行された。
十四時五分。紙コップは倒れなかった。
委員長の印鑑は承認欄ではなく、調査開始票へ押された。コーヒーは冷め始めていた。唯斗はその苦さを、初めて数字にせず飲み込んだ。