生姜は底に沈む

鯨井珠季が実家の台所へ入ると、午前一時を過ぎていた。

母は起きていた。理由を聞かず、小鍋から鶏と生姜のスープを白い器へ注いだ。湯気が珠季の顔を隠し、遅れて生姜の鋭い香りが鼻の奥へ届く。

「食べなさい」

それだけ言って、母は向かいに座った。

珠季は左手を膝の下へ隠した。婚約指輪を外した跡が、薬指に薄く残っている。結婚式場も、新居も、招待状の文面も決まっていた。それでも昨夜、彼の「仕事は辞めるよね」という言葉に頷けず、指輪を返してきた。

母には言えないと思っていた。母は昔から、決めたことは最後までやりなさいと言う人だった。珠季が部活を辞めた日も、転職を迷った夜も、続ける理由を先に探した。

婚約を解消したと知れば、もう少し我慢できなかったのかと問われる。その一言を想像するだけで、珠季は駅のホームで電車を三本も見送った。実家へ着いてからも、門の前を二度通り過ぎた。呼び鈴を押したときには、逃げる電車もなくなっていた。

車内で説明を何度も組み立てた。彼が悪いと言えば責任転嫁になり、自分が嫌だったと言えばわがままになる。どの文章も、最後には母への謝罪へ変わった。

スープの底には、細切りの生姜がたまっていた。子どもの頃、珠季は辛いものだけを器に残し、母に叱られた。今夜も最初の一口で舌が熱くなったが、鶏肉の間から生姜を一本ずつ拾って食べた。

母は見ていないふりをしていた。

半分ほど飲んだところで、珠季はポケットから指輪を出し、テーブルの端に置いた。金属が小さく鳴った。母の眉が動いたが、質問は来なかった。

珠季は残った生姜も食べた。けれど最後の一本だけ、どうしても喉を通らなかった。スプーンの上に載せたまま、器の縁へ置く。言葉にできない辛さが、細い一片になってそこに残った。

母は立ち上がり、空に近い器を持った。叱られる、と珠季は肩を固くした。

ところが母は、スプーンの生姜だけを自分の掌へ落とし、流しの生ごみ入れへ捨てた。そして指輪には触れず、器を洗い始めた。

「残していいものもあるから」

水音の中で、それだけが聞こえた。

珠季は指輪を握り直さなかった。テーブルに置いたまま、冷えていく薬指を初めて隠さずにいた。