白い影は絵を見ない
午前二時、閉館中の美術館で、第三展示室の赤外線センサーが三度目の反応を出した。
監視カメラには、白い人影が壁際を横切っていた。だが警備員の久世野弥生は、映像を拡大せず、三回分の時刻を紙に並べた。十二分、十一分、十二分。歩く人間にしては正確すぎた。
当直の学芸員は青ざめた。
「今夜は誰も入っていません。作品に近づいたのなら、すぐ確認を」
「確認はします。ただし一人では入りません」
久世野は第三展示室へ続く廊下に立入禁止の帯を張り、隣室のカメラをそちらへ向けた。侵入者が本当にいるなら、警備員が扉を開けた瞬間が最も逃げやすい。死角を増やしてから踏み込むのは、確認ではなく手助けになる。
久世野は警報時刻を空調の予定表とも重ねた。十二分ごとに除湿機が強運転へ切り替わっている。もし人が潜んでいるなら、その周期を利用して動いている可能性もあるため、学芸員には入口から離れないよう告げた。
二人で入ると、室内に人はいなかった。絵にもケースにも異常はない。久世野は床より先に天井を見た。空調の吹出口の下で、作品解説の白い帯が端から剥がれ、ゆっくり持ち上がっている。帯がセンサーの線を横切るたび、夜間映像の自動補正で大きな白い影に見えていた。
学芸員が帯を剥がそうとしたのを、久世野は止めた。
「糊が額縁側まで回っているかもしれません。作品担当が来るまで触らない方がいいです」
代わりに可動式の案内板で風を遮り、センサーの位置は変えず、廊下側のカメラで展示室入口を補った。誤報だけを消すために感度を下げれば、朝まで本物の侵入にも鈍くなる。
白い帯は動かなくなった。警報盤も沈黙した。
久世野は報告書に「人影なし」とだけ書かず、十二分間隔の理由と、死角を作らなかった手順まで残した。
午前七時、作品搬入のトラックが裏口へ着いた。学芸員が礼を言いに来た時、久世野はすでに次の展示室の鍵を数えていた。
白い影の夜は終わったが、今度は本物の人と作品が動き始める。