白い棚の向こう側
環は、眠れない理由を考えないために資格試験の願書を印刷しに来た。
締切まではまだ二週間ある。だから今夜でなくてもよかった。けれど午前一時を過ぎた部屋では、時計の秒針が「まだ」「まだ」と責めるように進み、ベッドに入るほど目が冴えた。
コンビニの蛍光灯は、夜を否定するように白かった。
棚の端まで同じ明るさが届き、菓子パンの袋も、洗剤の詰め替えも、誰かの忘れたような一個のりんごも、等しく輪郭を与えられていた。
コピー機へデータを送る。画面が青く光り、「受信中」と表示する。内部でローラーが回り始め、低い振動が足の裏まで伝わった。
一枚目が出てくる。
そのとき、コピー機の向こう側にある日用品棚が、ほんの少し揺れた。
環は顔を上げた。誰もいないように見える。けれど白い棚の隙間から、灰色の袖が一瞬のぞいた。夜勤の店員が反対側で商品を前へそろえているらしい。歯ブラシの列が一本ずつ静かにせり出し、乱れていた箱の角がそろっていく。
二枚目が出てくる。
ローラーの音。空調の音。遠くで冷蔵ケースのコンプレッサーが止まり、店が一段静かになる。
その静けさの中で、棚の向こうから小さなくしゃみが聞こえた。
環は笑いそうになり、口元を手で押さえた。相手も同じように気まずかったのか、しばらく商品が動かなかった。やがて、歯磨き粉の箱が一つ、慎重に前へ出た。
三枚目が印刷される。
紙はまだ温かい。環は願書の余白を指でなぞった。氏名を書く欄、受験地を選ぶ欄、日付を書く欄。どれも空白なのに、空白であることが少しだけ怖くなくなっていた。
レジへ向かうと、先ほどの灰色の袖の店員が立っていた。名札は裏返っていて、名前は読めない。
「袋はご利用ですか」
「いえ、大丈夫です」
会話はそれだけだった。
環は紙を胸に抱えて店を出た。自動ドアが閉じる直前、店員がまた棚の向こうへ戻っていくのが見えた。
白い店は、この時間にも誰かの手で整えられている。
自分の明日も同じように整うとは限らない。それでも、空欄は埋めるためにある。
部屋へ戻ったら、まず名前だけ書こうと環は決めた。今夜はそこまででよかった。