百十六年遅れの現像
文化財調査員の空閑芙冬は、明治四十五年の写真館へ十四日間だけ派遣された。
目的は、洪水で失われた乾板写真の目録を作ること。
写真師の賀茂井清矩には、芙冬を遠縁の助手だと説明した。
清矩は人を撮る前に必ず、好きな食べ物を訊いた。
「笑わせるためですか」
「食べ物を思う顔が、その人の本当の顔だから」
芙冬は百十六年後の食べ物を答えられず、「桃」と言った。
それから毎朝、清矩は市場で桃を探した。季節外れだから見つかるはずもないのに。
二人は暗室で肩を並べた。
芙冬は彼の撮った鉱山労働者や女工たちの写真が、のちに労働環境を変える証拠となることを知っていた。
清矩は、自分の写真が百年後まで残るとは知らなかった。
帰還前日、時間装置の予備席が一つ空いた。
清矩を未来へ連れていくことはできた。
「あなたの時代へ行けば、写真はもっと自由になるのか」
彼は訊いた。
「はい。暗室がなくても撮れます」
「君もいる?」
「います」
清矩は迷わず荷物をまとめた。
芙冬は止めた。
彼が翌年撮る河川工事の不正写真がなければ、堤防は改修されない。記録では、その改修によって大洪水を免れた村が三つあった。
真実を話すことは禁じられていた。
芙冬は嘘を選んだ。
「私の時代には、あなたの居場所はありません」
「昨日は、好きだと言った」
「調査対象へ近づくためです」
「桃も?」
「嫌いです」
清矩はしばらく黙り、荷物を元の棚へ戻した。
「なら、一枚だけ撮らせてくれ。仕事として」
芙冬は椅子へ座った。
清矩は好きな食べ物を訊かなかった。
シャッターの瞬間、彼女は笑えなかった。
未来へ戻ると、失われたはずの乾板が一枚だけ収蔵庫で見つかった。
目録にない女性の肖像だった。
裏面には清矩の字がある。
〈名を知らぬ未来の人。桃を嫌いだと嘘をついた〉
芙冬は暗室で乾板を現像した。
画像の中の自分は、百十六年前の光を浴び、別れた直後の顔をしていた。
清矩のその後を調べると、彼は予定どおり河川工事を撮影し、三つの村を救っていた。
生涯独身だったという一行もあった。
芙冬は報告書へ、その事実を書かなかった。
歴史に必要なのは彼の写真であり、彼が誰を待ったかではない。
現像液の中で浮かび上がる自分へ、芙冬は小さく謝った。
二人が一緒に生きなかったことで残った未来に、彼女だけが帰ってきてしまった。