真鍮の鍵を置く

都和が喫茶店の丸いテーブルに置いたのは、砂糖壺でも伝票でもなく、一本の真鍮の鍵だった。

父はそれを見て、コーヒーに口をつけないまま言った。

「まだ持ってたのか」

「返しに来たの」

「返す必要はない。実家の鍵だぞ」

鍵の頭には赤いビニールの輪がついている。高校のころ、門限に遅れても音を立てずに入れるよう渡されたものだ。だが、その後は父が都和の部屋へ入るための鍵にもなった。机の引き出しが少し開いていた日も、洗濯物の畳み方が変わっていた日も、父は「家族なんだから」とだけ言った。

都和は鍵をテーブルの中央へ滑らせた。

「実家じゃなくて、あなたの家」

「同じことだ」

「同じじゃない」

父の指が赤い輪に触れた。拾い上げるかと思ったが、鍵は小さく回っただけだった。

「今の部屋の合鍵は誰が持ってる」

「誰も」

「何かあったらどうする」

「管理会社に連絡する」

「家族より管理会社か」

店内の古いスピーカーから、知らないピアノ曲が流れていた。都和はカップの取っ手を握った。冷めかけた陶器の温度が、指先にちょうどよかった。

「私に何かあったとき、勝手に扉を開ける人じゃなくて、開けていいか聞く人に来てほしい」

父は口を閉じた。

都和は新しい住所を教えていない。父はそれを責めるために今日の席を指定したのだろう。それでも会う場所が自宅ではなく喫茶店だったことに、父なりの譲歩があるのかもしれない。都和はそれを感謝と呼ぶほど甘くは考えなかった。ただ、事実として覚えておくことにした。

父はようやくコーヒーを飲み、苦そうな顔をした。

「連絡はしてもいいのか」

「メッセージなら。返事がない日は、追いかけないで」

「電話は」

「急ぎなら一回だけ」

「一回だけ、か」

父は赤い輪を外した。輪だけを自分の財布へ入れ、裸になった鍵を伝票の上へ置いた。

「これは店を出たら捨てる」

「捨てなくていい。あなたの家の鍵だから」

「そうだったな」

会計を終えたあと、都和は先に立った。テーブルには何も残っていなかった。父の右手の中で、真鍮の鍵が一度だけ鳴った。

その音は、扉が閉まる音ではなく、誰が開けるかを決め直す音に聞こえた。