知らない笑い声
ビビアンの妹リノンは、十二歳の冬から一度も声を出していない。
喉に棲みついた灰色の蛾が、言葉も咳も笑いも食べてしまうのだ。医師は首を振り、祈祷師は高い香を焚いた。それでも、妹の唇から漏れるのは息だけだった。
声を失ってから、リノンは小さな石板へ文字を書いて暮らした。怒ると筆圧が強くなり、嬉しいと文字が右上がりになる。姉妹はそれで不自由なく話せたつもりだった。
けれど二十歳になったリノンが婚礼衣装の仮縫いをした日、石板へこう書いた。
――誓いの言葉は書ける。でも一度だけ、姉さんの名前を呼びたい。
婚約者は声が戻らなくても構わないと言っている。これは誰かに求められた治療ではなく、妹自身の願いだった。ビビアンは市場の裏にある小さな店を訪ねた。看板には耳の絵が描かれている。
「声戻しの雫があると聞きました」
店主は、真珠ほどの薬瓶を爪先で弾いた。
「あるよ。代金は、あなたがいちばん取り戻したいと思っている、その人の声の記憶だ」
ビビアンが欲しいのは、妹の笑い声だった。
幼いリノンは、笑う前に必ず鼻を鳴らした。焼き菓子を焦がしたとき。雨樋から落ちて泥だらけになったとき。二人で母の長い説教を真似したとき。鈴より低く、鳥より不器用で、聞くたびにビビアンまで息が苦しくなるほど笑った。
蛾が喉へ入った冬、最後に聞いたのもその笑いだった。雪を丸めたビビアンが足を滑らせ、姉妹そろって洗濯桶へ突っ込んだ。あの音が最後になると知っていたなら、もっと静かに、長く聞いただろう。
「それを払ったら、妹が笑っても分からないんですか」
「初めて聞く声になる」
婚礼で妹が誓いの言葉を言える。それだけでいいはずだった。けれど薬瓶を前にすると、ビビアンは自分が治したかったのは妹の喉なのか、昔の二人なのか分からなくなった。
店主が急かさず、空の銀匙を差し出す。
ビビアンは目を閉じた。妹が布団の中で笑っている。息を殺そうとして余計に震え、最後には二人で枕を濡らした夜だった。
「これを」
記憶は淡い金の泡になって匙へ落ちた。泡が消えると、何が可笑しかったのかも、どんな音だったのかも思い出せなかった。
家へ戻り、雫を妹の舌へ落とす。
リノンは一度咳き込み、それから、泣きながら笑った。
知らない声だった。
ビビアンも泣きながら、初対面のその笑い声に言った。
「はじめまして」